「プロジェクトX」、ジャッキー・チェンの映画のようなこのタイトル(そりゃ「プロジェクトA」じゃ(笑))。NHK総合で放映されているこの番組は、多方面のジャンルにわたり多くの計画(プロジェクト)を紹介し、その時のエピソードを紹介するものです。
NHKにしては、なんだかドラマチックな仕上がりの内容で、オープニングからして民放のような作りですが、やはりそこはNHK。真面目な雰囲気がプンプンしています。
この番組で紹介されたプロジェクトを紹介しますと、例えば、ホンダのCVCCエンジン開発の話、日本ビクターの家庭用VHS開発の話、マツダのロータリーエンジン開発の話等など・・・。
かと思えば宅急便でおなじみのヤマト運輸の成長してゆく話を紹介したりして本当に多岐にわたっております。
内容としてはただ、そのプロセスを紹介するのであれば、そんなに面白くもない話な場合もありますが、番組上ではナレーションやその当時の写真や動画、当事者をゲストに迎えてインタビューするなどして激動の秘話を紹介する作りとなっております。
何と言っても、秀逸なのはナレーション。田口トモロヲさんの抑揚のない口調、断定的な台詞がカッコイイんです。
と、番組の紹介はここまでとして、その内容と日本人の相関関係を考察して見たいと思います。
日本という国は高度経済成長の中で欧米に追いつけ、追い越せというスローガンの元、物質欲を満たすかのごとく怒涛の勢いで数々の物を生み出してきました。
そして、その過程では数多くの人々が膨大な時間を費やしてきた訳です。
基本的には仕事なのですから、物造りに情熱をかけようがかけまいが、儲けなければ企業として成立しないのは企業を経営されている方はもちろん、雇用者の立場の私達にもわかることであると思います。
しかし、この番組に登場する人々は決して「得した、損した」などとは言いません(番組の性質上そんなこと言うのはふさわしくないかと思いますけどね)。
口々に「大変でした。」とか「苦労しました。」とか言う訳ですよ(これも「簡単でした。」とか「全然平気。」とか言ったら盛り上がらないでしょうね)。
番組中、プロジェクトに関わった人は、必ず一回は危機に晒される場面が登場します。
しかし、それを乗り越えて最終的には成功を納めるという展開となります(失敗した話ではどうにもしょうがないですからねぇ(笑))。
別に雇われている訳で業務命令に従ったまでで、誉めたたえられることではなく、どんなに苦労しようが成功させるのが当たり前の話なんですよね、本当は。
しかし、約30分のテレビ番組になってしまうことから考えると、金勘定や雇い雇われということのほかに、この人たちを突き動かすものがあるように思えます。
それは、名声欲だとかその企業の中で自分の地位を向上じ、さらに良い賃金を貰おうとか思っていたかもしれません。
それでも、まだ動機として不充分だと思うんですよね。
私が思うに、多分、強いて名づけるのであれば”達成欲”(こんな言葉あるのか?)だと思うのです。
つまり、困難が大きければ大きいほど成功した時の充足感が大きいと思うんです。この人達はこれを求めてこの仕事をしていたのだと思います。
余談ですが、あるテレビ番組で婦女暴行連続殺人犯がなぜ犯行を繰り返すのかという話があって、犯人の話だと、レイプすると征服感を感じて大変気持ちが良いんだとか。またその上に殺してしまうと最上の至福感を得られるのだそうです。
人の命を奪うということは、相手の生命が自分の手に委ねられていることを意味し、人間として最上級の征服感を得られるのであると精神科の医師が話していました。
男がSEXをするのは性的快感を得る以上に征服感を得るためだなんて話も聞いたことがあります。
確かに、性的快感をだけを求めた場合と精神的充足感を求めた場合では後者の方がはるかに気持ちが良いと思いますからね。
この言い方は大変失礼なのですがこの番組中に登場する人達と、婦女暴行連続殺人犯が得ている快感は多分同じものだと思います(脳内に分泌される快感物質が”ドーパミン”であり、快感を感じる時に分泌されるのはホモ・サピエンスである以上同一の生体反応のはずですからね)。
ただ、対象が”人間”なのか”人間以外の目標”なのか状態が”生死”なのか”達成可否”なのかの違いでしょう(もしかしたら、婦女暴行連続殺人犯も人間以外の目標達成に精力を注いでいれば大成功してるかもしれません)。
では本題に戻ります。第二次大戦後、日本という国が物資的に貧困であったこと、敗戦国の精神的外傷から早く立ち直ろうとしたことが、このような人々を輩出してきたと、私は思います。
何故ならば、物質が窮乏しているのであれば生産する統べを開発しなければならないし、精神的外傷は復興を促進することで傷を癒やすぐらいしか手は無いからです。
<その2に続く・・・次回連載未定>
「ちゅらさん」の話
NHK朝のテレビ小説「ちゅらさん」。結構話題となったこのドラマ。沖縄の県民性が疑われるような誇張された人物像はJAROに訴えられないのだろうか?
Prologue:あらすじ
沖縄県八重山諸島にある「小浜島」。そこで産まれた−古波蔵恵里−通称「エリィ」。「八重山のてぃだ(太陽)」と呼ばれるほどの、底抜けに明るい性格の彼女の両親は「古波蔵荘」という民宿を経営していました。
そこへお客としてやってきた上村家。
母「静子」は彼女の子供である「和也」の要望で彼の弟である「文也」も連れて「「古波蔵荘」へやってきたのでした。
しばらくの間、小浜島で過ごしていた上村家。或る日、「和也」はかねてからの持病が悪化し命を落としてしまいます。
悲しみに暮れる上村家と古波蔵家。当然「エリィ」も悲嘆に暮れたのでした。
そして、「和也」の死とともに上村家が小浜島を離れる日が来ました。
島を離れる連絡船。エリィは離れ行く連絡船を追いかけ、涙ながらに文也に叫ぶのでした。
「大きくなったら結婚しようね!」と。
文也もそれにこたえるかのようにちぎれんばかりに手を振り、その呼びかけに答えるのでした。
・
・
月日は流れ、エリィも高校生となりました。古波蔵家も本島の那覇市に移り住み、生活環境も変わりましたがエリィの性格は相変わらずでした。
高校卒業間近、進路を決めていなかったエリィは大学受験にも失敗して進路を決めかねていました。
或る日彼女は決心します。上京してやりたいことを探そうと。そして幼い日の約束を果たすために。
果たして新天地「東京」で彼女を待ちうけているものとは・・・。エリィは文也と再び巡り合うことができるのか!?
Chapter1:馴れ初め
NHK「朝の連続小説」(以下「朝ドラ」)の場合、大抵女性が主人公の場合が多くて、大体ストーリーが決まっていたと思うんですよね。
大方、先の大戦に青春時代を過ごしたり、子育ての時代を過ごす場合が多いと思いません?
で、結果的に強く生きて行く女性像だったりするんです。
たまに「虹を織る」ならば主人公がタカラジェンヌだったり「雲のじゅうたん」ならば日本人初の女性パイロットだったりして趣向は色々あるんですが、内容は大抵同じなんですね。
そんな訳で全くといって良いほど朝ドラは見なかったのですが、最近何故か見るようになりました。多分「ふたりっ子」の総集編を見てからだと思います。
それ以降は比較的年齢的に近い話の「うらら」だとか、「私の青空」だとかを見るようになりました。
ちなみに何故か「すずらん」は良くある朝ドラのパターンだったのですが、内容が悲惨だったので(多分「おしん」以来ではないだろうか?)全部見ましたねぇ。
と、言う訳で(どんな訳だか・・・)「ちゅらさん」の話をします。これは単純で前回の「オードリー」がつまんなかったんで次の番組に期待しようと4月の番組改編時期の予告を見るようにしていたんですね。
で、「ちゅらさん」の予告を見たときビックリしたんです。なんと「ガレッジセール」の「ゴリ」が出てくるではありませんか!
それだけの理由で見ることにしたんです。それだけって・・・? そりゃ若手のお笑いが朝ドラに出ることなんて考えられないでしょ?別に面白くなかったら見なけりゃいいし・・・。
Chapter2:Lost Family
「失われた家族」ということになるのですが、別に古波蔵家が消失した訳ではありません(^_^;)。
家族ドラマというと冷えた関係を描いたりする場合が多いかと思いますが、古波蔵家の場合はそうではありません。
いつも子供を心配する両親。親を気遣う子供。そして年長者として人生の指針を示す祖母。
決して金銭的、物質的に豊かではないけれども、いつも笑いが絶えない明るい家族。
そんな家族はドラマの中でしか無いという方もいるかと思いますが、ドラマだからこそ、架空の話だからこそ、そんな家族の肖像が描かれていても良いかと思います。
秀逸なのはエリィの母親が「子供には子供の人生があるっていう人がいるかもしれないけと、私は親にとって子供はいつまでも子供だからね。心配するなって言っても心配するからね。」という台詞。
陳腐なのは判っているつもりですが、こういう台詞を臆面も無く言うドラマは昨今無いかと思います。
現代社会を鋭く切り取った社会派ドラマはあまりにも多く出過ぎて逆にマンネリじゃないかというところもありますしね。
もしかして、この話って本流とは関係ないのでは・・・(-_-)。
Chapter3:「おばあ」って・・・
「おばあ」とは、「おばあさん」、つまり老女のことです。
知っての通り、日本一長寿の県である「沖縄県」。おばあさんも当然多く居られると思います。
「ちゅらさん」に登場する「おばあ」はバイタリティあるれる、何事にも動じない、電話が掛かってくることがあらかじめ分かる(超能力者?)等などとにかく面白いキャラクターに描かれています。
実際のところ「沖縄の女は良く働く」などと言われております。「ちゅらさん」でも恵里の父親は余り働かず、母親の方が働いているように描かれています。
そんな地域性を背景に「おばあ」のキャラクターはさらに面白く感じられます。
「ちゅらさん」の内容から、「おばあ」の位置はまた重要な位置を占めています。
「おばあ」は恵里が悩んだり迷ったりしたときに、結果的に恵里にとって正しいと思われる方向に導いてくれているのですから。
もし「おばあ」なるキャラクターが存在しなかったら、ご都合的に展開してゆく このドラマの説得性を導き出すことは至難の技です。
それでなくても上村家が小浜島にきた理由が、空から降ってきた古波蔵荘の広告を偶然にも和也が拾うたっことが理由だし、恵里の住むアパートの住人が急病になったとき、搬送された病院が文也が研修医として努めていた病院だったり結構無理がありますからね。
少なくとも「おばあ」という説得力が無いと、このドラマは非常に無理があり、またそうなるのを防いでいると思います。
こんな「おばあ」が住む沖縄県って一体・・・、でも、沖縄に行ったとしても多分こんな「おばあ」はいないでしょうけど、80歳以上の走り幅跳びの世界記録保持者が沖縄県にいたりするんです。
恐るべし、沖縄県(@_@)。
Chapter3:個性溢れる人々・・・
「ちゅらさん」に出てくる個性溢れる人々。
いろんな人が登場します。異常に人が良い人、現実的な人、不器用な人、「引きこもり」の老人、世界の料理に精通する謎のおばあさん、等など・・・。
でも多分出てくるキャラクターに共通して言えることは、みんな「良い人」であるということ。
始めは拒否していても、最後には恵里の性格に心開いてしまうという展開や恵里のひたむきな思いに根負けしてしまう恋敵。
でも彼女を怨むようなことはなく、恵里であるから許される的な展開になってゆくのです。
果たしてこの状況、初めからみんな「良い人」といえるのでしょうか?
初めはみんな自分のスタイルを持ち、自分の世界観の中で生きているのですが「恵里」という人格が現れると、みんな良い人となってゆくように見えます。
話上、恵里はみんなが良い人になるよう仕向けている訳ではなく、彼女が生きてきた(沖縄流の)ライフスタイルを貫き通しているだけなんです。
これが、周りの人に波及してゆくということになって行き、最後には「良い人」となっていってるのだろうと思います。
あるテレビ番組で沖縄の県民性について紹介されていたのですが、約束の時間に遅れても怒られないし怒らない、食べ物の貸し借りが行われたり等など・・・おおよそ本土の人間からすると考えられない世界がそこに展開していました(まぁテレビですから大げさにしているかもしれませんけどね)。
でもこれって、少なくとも昔の日本にもあった風景で別に沖縄特有の文化って訳じゃないような気もしますがね。
でも、そうゆう精神的な部分で人と人が関わり会うことって、なんかとっても重要な気がします。
Epilogue:「ちゅらさん」の魅力
端的にいうと「臭っさい、ご都合的、さわやかNHK的トレンディ(死語?)ドラマ」ってとこでしょうか。
でも、その臭っさいドラマをこんなに観てしまう自分はやっぱり臭っさい物語を期待して観ているんでしょう。
そして誇張された沖縄人が面白く見えてしまうのは、やはり沖縄という土地がどんなところなのか知りたいという願望が自分にはあるのでしょう。
自分は沖縄人ではないので、知識だけで語るっているところは大変おこがましいとは思うのですが、決して沖縄の歴史がいつも良かったという訳ではないことは分かっているつもりです。
ただ、そんな時代背景を考えながらも。この物語に登場する沖縄の人たちの明るさやひたむきさは、自分達本土の人間が忘れつつある精神的な何かを教えてくれているような気がします。
なんにしてもいつになく「朝ドラ」の中では名作だと私は思います。
ですからNHKさん。この名作を再放送して下さい。そしたらビデオに全部撮ります(笑)。