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*   愛国心−日本国を愛せない日本国臣民に告ぐ−

*   軍隊を作ると軍国主義になるのか?−有事法案とこれからの自衛隊のあり方における考察−

*   The case of Tamao Nisi.−地球環境と人間の関係を再考する

*   難病指定について−テレビ番組で紹介された染色性乾皮症による考察

*  ER(Emergency Room)−救急医療のこと

*  ノーベル賞のこと

*  北の国から2002 〜帰郷〜

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愛国心

−日本国を愛せない日本国臣民に告ぐ−

なんだか超凄いタイトルですが、中身はそんな凄くないんで安心してください(ホントか?)

なんか最近、日本国政府の方々が、 “愛国心”を認識させるような(文部科学省管轄の、特に小中学校の)学校教育指針を発表したとかしないとか・・・。

私自身は“何言ってんの?”って感じですね。

煽動してんのかなぁ・・・。

と、言うのも“愛国心”って、国が「“愛国心”を持ってね。」って国民に“お願い”することなんでしょうか?

皆さんは、“愛国心”って持ってます?

私自身は持っているとも、持っていないとも・・・どっちとも言えないのです。

これはひとえに“愛国心”というものの定義をどう解釈するかにかかってくるような気がするんですけど。

それに愛国心っていうと、先の大戦における、あの感覚があってあんまり良い感じでない人もいるのではないでしょうか。

では、現在日本では愛国心をどのように解釈すべきなのか、考察したいと思います。

 

まず、第二次世界大戦(“太平洋戦争”または“大東亜戦争”)当時のことに付いて考察します。

真珠湾攻撃以降、快進撃を続けてきた日本軍。

しかし、ミッドウェー海戦の大敗を機に日本の太平洋における軍事的影響力は序々に縮小していったのでした。

今まで広大な占領地から確保できていた資源が補給できなくなり、豊富な物資で攻撃してくる連合軍に勝てる材料が少なくなって事実上敗戦を待つのみとなったとき、それでも敗戦を免れようとして軍部が国民に期待したのは“精神力”だったんですね。

つまり、勝てるはずも無い戦いを勝利させようとして人間を“資源”として使おうとしたとき、対象となる人間を兵器として教育(洗脳)する必要があったわけです。

そこで、“お国のために”とかのスローガンを乱発したりして愛国心をあおろうとしたわけですな。

まぁ、当時の日本軍の兵士としては、敵前逃亡は現行犯で銃殺刑だったんで逃げることもできず、目前の勝てるはずもない敵に無謀に突っ込んでしまっても結局殺されてしまうんで、どっちを選ぶか究極の選択だったんだと思うんです。

戦死すれば“名誉”という風潮であったし、逃亡すれば親類縁者まで“非国民”だったんで多くの人は前者を選んだんでしょうなぁ。

また、当時は戦死すると英霊っていって神として靖国神社に祀られるってのもあって戦死することが名誉だって言う感じにもなっていたんですね。

そういったわけで、愛国心って言うとあの戦争のイヤな感じを連想される方もおられるかとおもうんですよね。

案外、愛国心って宗教的な色合いが連想されて敬遠されてるのかも知れません。

 

とまぁ、戦争時の状況とそれに対する考察をしてきたわけですが、じゃぁ、愛国心ってそんなものなのか?と、考えたとき、私的にはなんというか、疑問が残るんです。

じゃぁ。非戦闘員の国民は有事の際になんにもしなくてよいのか?

これについては疑問です。

例えば今、戦争が起こったとして敵が上陸してきた場合、非戦闘員である我々は何もしなくて良いのでしょうか?

我々が戦闘をしなくてどうするっ!!ってなことを言う気はありません。

例として有事の際には軍部、いや自衛隊が民間施設を接収して使用する問題を考えてみましょう。

これは、有事の際は混乱している場合もあってなんともいえないのですが、戦後処理で接収された施設の財産権や使用した期間の補償、また、不動産であれば改造や破損した場合の補償とかが問題になってくると思うんです。

でもこれは勝った場合の話。

負けてしまったらどうなるでしょうか?

当然のことながら戦勝した側の財産としてその施設を有無を言わさず接収されてしまう可能性だって考えられるわけですよね。

そして、永久にもとの持ち主はかえってこないかもしれない。

そんなことになるのであれば戦勝するように戦闘する機関に協力したほうが得なのではないでしょうか。

少なくとも自分の生活を守ろうと思ったとき、一時的に不便であっても結果的に元の生活へ戻れば、それはそれで良いような気がするんですが、いかがでしょうか?

結局、「愛国心を持て」、と、言われれば、「国対国の戦争があったとき自分の生活を守るため現状の国家を維持する必要があると感じるのであれば、国家の指示に従うことが妥当であると言う心を持ちなさい。」という意味に捉えるってことになるかと思うんです。

これはこれで問題が無いような気がするんですけどね。

しかし、これではなんだか納得できないんでもう一つの事柄で考察してみたいと思います。

 

で、次によく愛国心が問題視される一つ事柄として「ファシズム」なる言葉がでてきます。

これは、国を指す場合は「国粋主義」とかに訳される言葉です。

これの代表的なのが総統アドルフ・ヒトラーとその狂信的とりまき“ナチス”が作り上げた恐怖政治国家、当時のドイツです。

ヒトラーは“優秀な民族は下等な民族を支配してよい”的な思想を掲げて国民を煽動したわけですが、これが何故か上手いこと国民に受け入れられたわけですな。

と、いうのも、第一次世界大戦に敗戦したドイツはベルサイユ条約で莫大な慰謝料と軍事的、経済的に不平等な条約を結ばされてにっちもさっちもどーにもならないような状況に追い込まれてしまっていたのです。

国内もかなり悲惨な状況で、高い失業率で民衆は貧困にあえいでいたという話です。

そこで登場したアドルフ・ヒトラー。

彼は“ゲルマン民族こそ世界で最も優秀な民族。そのような民族が、現在のような境遇であることは許されない”といったことを言って民衆を煽動したわけです。

この言葉が虐げられていた当時のドイツ民衆の心を掴んだんでしょうなぁ。

あれよあれよいう間に、ヒトラーはドイツのトップに踊り出たわけです。

最初は快進撃を続けていたナチス・ドイツなんですが、ソ連侵攻の失敗や連合軍の反撃、イタリアのムッソリーニ政権の失脚なんかでヒトラーも追い詰められていったわけです。

そこでヒトラーは、当時、ユダヤ人が資本家、銀行家なんかを成功させていてドイツ国内でも結構幅を利かせていたということで、優秀な民族が下等な民族にどんな形にせよ支配されているのは許されないという大義名分のもとユダヤ人を根絶やしにしようと、かねてから目の敵にしていたユダヤ人の迫害を行ったわけです。

と、史実はここまで。

では、ここで“ファシズム”と愛国心との関係を考察します。

歴史上、“ファシズム”による考え方の問題点は“民族”というある共同体が他の共同体より優秀で、前者は後者をどんな形でもいいから支配してよい、といった考え方にあるわけです。

“どんな形でもいいから支配しても良い”ということはヒトラーのように、ユダヤ人は下等な上に危険な民族であるから地球上から抹殺しても良い、と、いうことが正当であるということになってしまう訳です。

でも結局、敗戦したドイツは(日本もある程度そうだけど)戦争が終わって50年以上経つ今でも戦後補償をし続けなければならないという事実がそこにあるわけですな。

結局のところ、人間は、特に集団になればなるほど一時的に支配していても結局支配者は圧倒されてしまうということは歴史的から考えても自然の流れになっているように思います。

ただ、ファシズム的な風潮が起こりそうなとき、前記の通りそれは間違っているのだから、阻止するようにする必要があるとは思いますがね。

ところで最近の報道で思わず笑ってしまったことで、サッカーの日本代表の応援がファシズム的な思想へ傾倒するのではないかというのがあったんですが、それはさすがに無いでしょうよ。

どっちかって言うと、お祭り的な騒ぎ方なんだと思いますよ。

 

とまぁ、2つほどの事例を元に考察した訳ですがここいらで纏めたい思います。

まず、ズバリ愛国心は必要なのかということなんですが、私は条件付きで必要だと思います。

まず、自分の生活を守るべきだと思うのであれば人まかせにしないで自分の力で守ることだということ。

これは別に外国に侵攻された場合とか、テロがあったときとか、そういう極端な話ではありません。

例えば、税金が高い、失業率が高い、もっと言うと道路が無いとか、ごみ集積所が遠いとか、そういった不満でも良いかと思います。

まぁ、ごみ集積所はともかく、少なくとも税金は直接に生活に影響するわけですし、失業率や道路の有無は生活の不安や不便を感じさせる要素の一つであると思います。

そこでそれらを改善すべく自分でなんとかしようという努力をしてみたところで、どうにもならない場合があるかとも思います。

しかし、何もしなければ何も起こらないし、何かすれば何かの結果が起こる訳です。たとえ見かけ上、期待した結果が得らず何も起こらなかったと感じていても、予想外の結果が起こっていてそれを知らないだけかも知れません。

だったら何もしないより何かしたほうがいいんじゃないかと思います。

このときに必要なのが自分の生活をより良い方向にして行こうという意思。

某関西歌手の歌で少し有名になった“マーフィーの法則”で“上手くいかない要素が考えられる場合、その事象は必ず上手くいかない”というのがあります。

これは、まぁ当たり前の話なんしょうけど、逆に“上手く行くことを考えれば、その事象は上手く行く”とも考えられないでしょうか。

私は “上手くいかないと考えるよりも、上手くいくと考えて行動していると同じような事象でも前者より後者の方がより上手くいく”ということを経験則的に感じています。

では、自分の生活がより良い方向に行けばよいと考えていれば上手いこと思い通りに行くのでしょうか?

それは個人の力では限界があり、結局、密接な関連性が無いにしろ集団生活を送っている人間の生活スタイル上、どうしても共同体を無視できなくなる時が来ると思います。

と、いうことは、自分がそう思うことにより他の人の生活もそうなって行くと考えられないでしょうか?

結局、自分のことだけを考えていると、ある時点から他人のことも考えざるを得ないことになるような気がするんですよね。

その考えは発散してゆき結局、民族、国、果ては地球規模と遥かなところまで行き着いてしまうかもしれません(オーバーかな?)。

ところで、自分の生活を良くして行こうと思ったとき、必要な感情があると思います。

それは“愛”です(クッサー)。ってなんか恥ずかしい気もするんですが、これはいわゆる男女間の恋愛の“愛”ではなく“いとおしい”という意味での“愛です。

大嫌いな人がいたとします。もし、それくらいに自分自身が嫌いな人がいたとしたら、自分を生かそうとは余り思わないだろうと思います。

生活の改善など求めることもなく、自分が嫌いなくらいなんだから他人のことなんかどーでも良くなってしまうことが予想されます。

では、自分大好きであればどうなるのか。

この場合は前記とは逆の現象が起こると思われます。

これらの考えが発散してゆけば、近隣の人々が、民族が、国が、地球が嫌い、好きとなっていくような気がするんです(ちょっと自信ないなぁ。この理屈)。

と、いう訳でいよいよ纏めます(前フリは一体なんなんだ?)。

愛国心とは“自分の生活を守るため、自分の生活がより良くなるように、しかし、自分だけの力だけでは限界があるからより良い生活共同体を目指し自分を愛するように他人も愛し、共同体も愛する心構えをもつ”ということなんじゃないんでしょうか?

生活共同体とは近隣の人々、部落という意味合いに捉えられるかもしれませんが、元々国の司法、立法、行政の各出先機関は各生活共同体をより良い方向へ導こうということで設置されていると考えられるので(ただ、現在はその元々の機能が低下しているような気がしますが)これら出先機関を統べるものが国家である以上、結局、愛国心とは“国家を愛する心”となってしまうようです。

しかし、今の国家を愛する人は皆無に等しいのではないでしょうか。

もし、国家を愛して欲しいのなら、愛されるような国家を作ることが必要だと思います。

国家に雇われている人たち(公務員の方々)、それ以外の国民、両方が努力しなければならいかと思います。

なぜなら日本国憲法によれば、“主たる国権は国民が持つ”ことになっており国家が国権を発揮する機関であるとすれば公務員の方々も、それ以外の人々もおしなべて“国民”だからです。

(2003年10月4日 掲載)

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軍隊を作ると軍国主義になるのか?

−有事法案とこれからの自衛隊のあり方における考察−

昨今、物騒な東南アジア(とは言っても北朝鮮がらみがほとんど)ですが最近日本でも有事法案が国会で可決されたそです。

で、これでやっとのことで自衛隊も有事に出動できそうな感じにはなってきたんですが、実質的には法律ができる前とあんまり変わらないのが実情なようです。

この法案によると、国として“有事”と判断された場合に“国会”で“審議”して出動を決めなければならないということらしいんですが、これって突然攻められたり、弾道ミサイルを発射されたりして間に合うんでしょうか。

たとえば、北朝鮮のどっかから弾道ミサイルが発射された場合、日本のどこかは分かりませんが、着弾するまで10分くらいだそうです。

まぁ、日本が最近打ち上げた“環境調査用”という名目の実質軍事衛星がミサイル発射の瞬間を補足できたとして(静止軌道じゃないからまぁ無理だけど)それから関係者を国会議事堂に招集して議会を開いて可決するまでに10分はゆうにかかると思いますけどねぇ。

とまぁ、机上の空論から抜け出せない感が否めない法案ですが、少なくとも有事があった場合に何かしなくちゃならないということを考え始めただけでも評価はできるんじゃないでしょうか。

というのも、30年ほど前に自衛隊の幕僚レベルの人たちが秘密裏に有事の時のシュミレーションなんかして研究していたのがバレた時、国会内でものすごい批判があったそうで“クーデーター”を目論んでるんじゃないか位に言われたらしいですからね。

つまり、有事を公的に論ずること自体がタブー中のタブーだったんですな。

ところが、昨今の北朝鮮問題、イラク、アフガニスタン、もっと言えば、チェチェンなんか国内紛争や独立問題で物騒になってきたんで、この話ができるようになったみたいです。

 

さて、日本には“自衛隊”なる不可思議な公的機関があります。

これの前身が“警察予備隊”っていう名前の機関だったんで、司法機関なのかなぁ。と、思いきや、そのあとすぐに“自衛隊”って名前になったもんですから今じゃ何の機関なのか分からない状態です。

で、内容から推測すると、拳銃、機関銃、戦車、高射砲、大砲、戦闘機、巡洋艦・・・所有し取り扱うことができる人がいる団体・・・、これって“軍隊”じゃないの?

でも日本国憲法(以下“憲法”)第9条のA項では、「・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。・・・」と書いてあります。

まぁ、これも考え方なんですけど、武器をたくさん所有していても、それを使うことができなければ戦力とはならないので「戦力を保持」していることにはならないんですけどね。

と、お役所的解釈は置いといて、実質的なほうから考えて見ましょう。

自衛隊には“演習”という活動があります。

これは、自衛隊が所有している武器類を使用して戦闘のシュミレーションをすることです。

このシュミレーションは明らかに“戦争”を意識したもので、実戦ともなれば、実際にその行動を展開することが考えられることは明白です。

これが戦闘を意識していないとすれば、税金を使った超リアルな“サバイバルゲーム”ですな。

まぁ、上記のようなことは無いかと思いますので、“演習”は戦力になりうることが考えられ、憲法第9条A項に抵触すると思うんですが・・・。

と言うことで、“自衛隊”は“軍隊”なんですが、憲法第9条があるんで軍隊とは大っぴらに言えない訳です。

まぁ、それに今、日本が“日本軍を作りまぁ〜す”だなんて言ったら東南アジアの国から非難轟々でしょうなぁ。

「日帝再来」だなんて中国の新聞に書かれそうです。

 

次に、日本にはアメリカ合衆国の軍事基地があちこちにあります。

でもこれってよーく考えるとヘンな話ですよね。

一応、内紛とか無いような国で外国の軍事基地、施設があるんですから。

これって進駐されているのと同じなんじゃないでしょうか。

 “日本は戦後以降ずっと占領されてる”なんて言う人もいます。

ところで、アメリカ軍の皆様はどうして日本に駐屯しているのでしょうか。

今となっては、余り意味が無いのですが、ロシア(当時“ソビエト連邦”)や中国などの共産国家とアメリカとが軍事的に緊張していたのがきっかけとなっているらしいのです。

地理的に日本は太平洋側から見ると極東ロシア南部、中国の盾みたいになっているのが分かるかと思います。

太平洋へ軍事力を展開する場合、日本に軍事的な基地などがあると、海空軍はどうしても日本上空や海峡を通る必要があるので、迎撃しやすいって利点があると思うのですよ。

ロシアや中国がアメリカ本土へ軍事的展開をする場合に、本当ならば北極海を通っていくのが近道なんですが、北極海は冬に凍ったりするんで進軍するには、不便です。

でも、昔日本がやったように、日本からフィリピン→ニューギニアって展開してゆけば比較的アメリカ本土へ近い場所へ環太平洋の島々に軍事基地を置くことができる訳で軍事的に有利に事を運べそうな気がします。

今はだいぶ縮小したようですが、昔アメリカの基地もそんな感じて展開していました。

と、まぁ、そんな訳でアメリカにとって日本は地理的に重要軍事拠点となる訳ですな。

ところで、アメリカは日本にどうして基地を置くことができるんでしょうか?

それは日本とアメリカとの間で交わされた「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」という長い名前の条約があるからなんですな。

よくニュースなんかでは“日米安保条約”とか“安保”とか言われています。

で、この条文の中で第6条に「・・・アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国内において施設及び区域を使用することが許される。・・・」と書いてあります。

これで、アメリカ軍が日本国内に軍事施設を設置できる訳ですな。

まぁ、これって考えてみたらかなり不平等なことだと思えます。

アメリカが日本国内に軍事施設を作ることができるのに対し、日本はアメリカ国内にそれを作ることができない事になるわけです(安保の条文にその旨が記載されている訳では無いのですが、日本は憲法で軍を持たないことになったているので条文に盛り込む必要も無いし、自衛隊の施設であったとしても、当然、安保を改正するか別の条約を作ることになる訳です)。

ただ、同じ第6条の中に「日本の安全に寄与し・・・」と書いてありますから日本の有事の際には、アメリカ軍は日本のために何かしてくれそうな気はしますが・・・。

 

とまぁ。上記のような問題があって法律上の制限から自衛隊は実質的に交戦状態となった場合、機能しない可能性が高いし、アメリカ軍もいざとなったらば、どういう行動に出るか分からないのが現実なんじゃないんでしょうか。

これはかなり難しいと思うのですが、私なりに案外丸く収まるのでは無いかと思いまして下記のようにすれば良いんじゃないかという案を考えてみました。

@       憲法第9条の記述を変更する。@項に「・・・国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というところを国防にのみ限定した戦争については許すような文章に変更する。

A       自衛隊は“国防軍”にする。上記のように国防に限定にした軍隊とする。

B       軍人は立法機関に参加できないことにする。特に重責の“大臣”などの役職には就けないことにする。

C       問題になっている海外派遣はアメリカ・ヨーロッパの“NATO”(北大西洋条約機構)軍みたいにASEAN諸国で同じような機構を作って対応する。

この位でしょうか。上記@A項は、元々文章に無理があるし、無作為に戦争を仕掛けられたらどーすることもできないんで国防のための軍隊は必要だと思うんですけどね。

それに第9条の@項の「・・・国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」ってなってるけど、内戦とかの“国際紛争の解決する手段”以外なら武力を行使しても良いってことになるんじゃないかなぁ。まぁ、それはそれで必要か。

上記B項は太平洋戦争のきっかけとなった軍部(特に陸軍)の暴走を食い止めようという風に考えて書いてみました。これじゃとても文章的にザルなんで駄目ですが、そういう文民管制ができるような、武力を勝手に使えないような管理をする方法を考えたほうが良いのではないでしょうか。

上記C項は、昔の“大東亜共栄圏”じゃないけど、言葉の意味で言えばほぼ近いです(昔は、この言葉を唱えながら日本は東南アジアを侵略して行った)。

NATO軍みたく加盟各国に軍事施設なら安保みたいな不平等なことは無いでしょうし、それにアジア・オセアニア各国の友好も図れそうだし・・・。

そうすると、日本には“国防軍”とASEANの軍との二つの軍隊ができる訳です。

“国防軍”は侵略行為で戦争ができないし、国際紛争的なほうはASEANの軍で処理するようにすれば良いし、さらにASEANの軍の方で国連軍に参加できそうだし・・・。

 

とまぁ、色々書いて見ましたが、最後に、本当は軍隊なんか無いほうが良いんですけどね。元々軍隊って侵略のために存在しているみたいなところがあるから。

ある意味“自衛隊”って名前は正解かも知れません。

あと、かの永世中立国のスイスですが、あそこの国はどことも同盟や条約を結ばないってな感じになっいるんじゃなかったかな。

だから何かあっても外国からの援軍も呼べないし、すべて自国内で解決するしかないという道を選んでしまっている訳です。

しかし、防衛はしなくちゃならない訳だから有事の際にはどうするのでしょうか。

テレビで紹されていたところを見たことがあるのですが、スイスでは有事の際には国土全体が戦争に対応できるようになっているんです。

まず、高速道路は滑走路となり戦闘機が離発着できるようになっていました。道端に戦闘機の格納庫が置いてあるんです。

あと、主要な橋には爆弾があらかじめ仕掛けられていて、有事の際には爆破してしまうことによって、陸路を絶つようになっている訳です。

で、国民の一人一人が戦闘員で、家に銃火器が置いてありました。

周りの国との同盟など協調できない分、徹底して自国内で守ろうという姿勢が見られました。

そのようになった経緯はスイスの歴史にあるようなのですが、詳しくは知らないのでそれを推し量ることは私にはできません。

そんな国もあれば、日本みたいにアメリカ様の顔色をうかがいながら、アメリカ様の傘をかぶって平和を享受している国もあるわけです。

 

別に軍隊が無いから外交的に弱いとは思いませんが、自国民を拉致されて米を送るような国は日本ぐらいでしょうなぁ。

(2003年7月1日 掲載)

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The case of Tamao Nisi.

−地球環境と人間の関係を再考する−

えー、今回は地球環境、動物保護問題とかの環境関係のお話を書こうかと思います(スケール、でかっ!!)。

まずは、このお話を書こうかと思ったきっかけである、最近、横浜市役所が特別に住民票を交付した“ニシ・タマオ”さんのことについて、書こうかと思います。

ご存知の通り、“ニシ・タマオ”さんは横浜市の帷子川に在住(“棲息”?)している、アゴヒゲアザラシ、通称“タマちゃん”のことです。

この人騒がせなアザラシが最初に目撃された東京の多摩川の岸辺に現れたのは、今から約半年前のこと。

“この暗いご時世に、明るい話題・・・”を枕詞にテレビのワイドショーなどで大々的に取り上げられ一気に人気者になった彼(?)でした。

その後、転々と居場所を変え、現在横浜市に在住ってことになってるようです。

まぁ、これは良く知られているところであると思いますので今更説明することも無いし、その騒ぎについて書くことも無かったんです。

今までは・・・。

ところが、この話を書く気になったのは、今日(2003年3月16日)にワイドショーを見ていたところにありました。

まぁ、突如といった表現が適切だとは思いますが、ある自然保護団体(アメリカに組織があるらしい)が“タマちゃん”の捕獲に乗り出したのです。

TVで流れていたシーンは、あの汚い川に網を仕掛けてアザラシを捕まえようとしている外国人の姿でした。

結局、アザラシは捕獲できず、獲れたのは鯉一匹だったようでした(まぁ、鯉がいるってことは魚が棲めないくらい汚くは無いけど、鯉が棲めるくらい澱んでるってことだけどね)。

で、その後にTVに映ったシーンがこれまたなんともって感じでした。

捕獲しようとしたのは“タマちゃんを”、“救う会”(だったっけ?)の人で、捕獲を止めるように言ってたのは“見守る会”の人だったんですね。

お互いに真剣に言い合っていたシーンは、まぁ、いい大人が海獣一匹を巡って目くじらたてるようなことじゃねぇだろっ!!って感じでなんか情けなくもなるような有様でした。

そのあと、“救う会”の人ってのが記者会見を開くし、それに集まるマスコミもどうだかって感じですが、その会見場に“見守る会”の人が紛れていて“救う会”の人に文句を言ったのも、「なんだかなぁ」って感じでした。

この不景気に何やってんでしょうなぁ。よっぽど暇なんですねぇ。

今日明日、食うや食わずの生活を送っている人も居るってのに・・・(そういや自然保護団体ってのはあるけど、人間保護団体ってのは聞いたことないなぁ、あ、それって人権擁護団体のことか!)。

てまぁ、“目くそ鼻くそ”のエピソードはこれくらいにして本題に入ります。

まず、“自然保護”なんて言葉がありますが、人間って偉くなったもんですねぇ。

“自然”を“保護”するって?人間って自然の中で生活している動物じゃないの。

あと“地球にやさしい”ってのも、人間に対して“地球”の仕打ちは厳しいと思うけどなぁ。

誤解を招く表現は止めたほうがいいような気がするんですけど。

まぁ、言葉における考え方の相違は置いといて、動物保護と“ニシ・タマオ”さんについて考えてみましょう。

まず、人間以外の動物と人間の関係なのですが、一体何なのでしょう。

ひとつ考えられるのは、地球上の生態系という循環の中で食物連鎖という線上に存在する生命体のひとつであると考えることができるかと思います。

これは、普段食卓に並ぶ動植物の亡骸を想像して頂ければご理解いただけるかと思います。

では、“ニシ・タマオ”さんの場合はどうなるのか?

少なくとも日本ではアザラシの肉は食卓には上らないと思うんですがいかがでしょうか?

と、なると、少なくとも日本人という人間が所属する食物連鎖上にはアザラシは存在しないということになるかと思います。

次に、少なくとも日本人に多かれ少なかれ接触がある動物には、家畜というカテゴリがあるかと思います。

食物連鎖上に存在しない家畜は、農耕馬、農耕牛などいわゆる労役用の用途が考えられます(競馬馬なんかもこれに当たるのだろうか?)。

でも、アザラシが鍬を引っ張ったり、競争させている(水族館なんかでやっているところもあるかも知れませんが・・・伊豆の方に競馬ならぬ“競猪”ってのがあるらしいんです)話なんか聞いたことがありません。

もうひとつ、家畜の種類の中で“愛玩動物”って部類があります。

いわば犬猫の類ですね。

だったら、“ニシ・タマオ”とまで名前を付けられる“アザラシ”って“ペット”ってこと?

でも、周囲の人は餌付けしている訳でもなんでもないし、飼っている様子も無い・・・。

となると、このアザラシと人間(近隣住民など)との関係は何なんでしょう。

そうすると、あと何が考えられるのでしょうか?

私が知っているアザラシについての知識からは、この動物が人間に対して益獣というより、どっちかって言うと害獣の要素のほうが強いという印象があります。

と、いうのも、アザラシの餌は魚、蟹、貝なんかの海産物だったと思います。

人間もこれら海産物を食物として獲っている訳ですから、アザラシと人間は食い物の関係ではライバルってことになりません?

ただ、人間に被害の出ないぐらいの量をアザラシが獲るのならば、人間が駆逐する理由は無いでしょう。

つまり、人間(日本人)とアザラシの関係は特に利害の関係が無いものである可能性が高いと思われるのです(ただ、人智を超えたところでアザラシと人間が密接な関係で結びついているかも知れませんが・・・)。

私が思うに、ただそこにいる“野生動物”ってことになるんでしょうねぇ、やっぱり。

“野生動物”なんですけど、私的には“人間が、または人間に干渉されないで自立して生きている動物”っていうのが、それの定義だと思うんです。ちなみに“野生動物”と“人間”との関係は対等(タメ)だと私は思っています。

となると、“ニシ・タマオ”なるこのアザラシは“野生動物”ってことになるんですよねぇ。

結論として、“ニシ・タマオ”さんは、そこに滞在している理由がわからない以上、そのまま放置しておくのが一番のような気がするんですよ、私は。

ただ、もし病気なんかで弱ったりしているのならば保護して治療する分には問題ないかと思います。

本当は、自然のものなので放置するべきであるとは思うのですが、勝手に迷い込んできたにしろ人間の生活活動で汚れた川の水質が理由で弱ったんなら、人間にも非があると思うんです。

まぁ、そんな状況に陥った時、そうしたいと思う人がいるのならば、それを“同情”的だとか“偽善”的だとか非難する理由は無いと私は思います。

と、まぁ、ここまでは今日以前までの話を書いたんですが、今日からは勝手が違います。

少なくとも“タマちゃん”を保護して元々棲息していたと思われる海域へ還そうという人がでてきた訳で、これについてはどうかと思うんですよ、私は。

これって、ある意味おせっかいだと思うんです。

“ニシ・タマオ”さんは、そこが嫌なら自力でそこを離れていくと思うんです。

まぁ、“ニシ・タマオ”さんが日本に来た理由として、海流に流されたという説もあるのですが、日本近海の海流って北の方に流れているんじゃなかったっけ?

北の動物が南へ流されるってことあるのかなぁ。

そうでないなら南からきたのでしょうか?

南半球の知識が疎いのでなんとも言えないのですが、南半球でアザラシが生息できるとすれば、寒いところ、つまり南極付近だと思うんです。

で、北半球から南半球へ海流によって流されるということがあるとした場合、赤道を通って来たことになりません?

寒い地方の動物が?赤道直下を通ることができる?人間だって熱射病になるような地域を通って?そんなことが考えられるんでしょうか?

南半球説は考えずらいので考えないことにして、北から来た“タマちゃん”は潮流に逆らってまで横浜まで行き着いたとなると餌を求めて南下したと考えるのが妥当なのではないでしょうか?

とすると、このアザラシの意思で南下したということとなり、捕獲して棲息していたと思われる海域へ戻すという試みは間違っていると思うんですよね。

あと、続報でその保護団体の人が川目掛けてホタテ貝を投げ込んでいたんですよ。

で、横浜市の職員の方がそれを阻止すべくまたまた一悶着起こっておりました。

団体側は“餌”と主張し、職員側は“ゴミ”と主張しておりましたね。

「なんだかなぁ。」って思いましたが、ふと、私的には団体側に分が悪そうな気がしました。

これって、自然動物に“餌付け”している行為ととられても仕方ないと思うんです。

どういう保護団体なんだ?

また、団体側の記者会見で“タマちゃん”は痩せているので保護しなければならないと主張しておりましたが、TV取材で水族館の方の話なんかによると問題無いように見えるとのことで、説に信憑性が無いですよ。

それに、ゲリラ的に捕獲を強行する姿勢なんかがヒンシュクを買ってしまっているようで、世論は団体側にとって不利に働きそうな気配です。

てな訳で、“ニシ・タマオ”話はここまでにして、私が自然保護について疑問に思ったことと、それについての考察を書きます。

まず、アカウミガメの話。

アカウミカメが砂浜に卵を産み付けることをご存知の方は多いかと思います。

よくTVなんかで満月の夜、涙を流しながら卵を産むカメの姿を神秘的だとか、感動的だとかナレーションを付けて放送してますからね。

私の地元でも、カメが産卵する砂浜があり、保護団体も存在します。

で、その団体の方々は保護に非常に積極的で、以前自動車の乗り入れが可能だった砂浜が、産卵場所だといってある程度進入できる範囲を制限され、その内に砂浜の防波堤から波打ち際まで進入禁止となり、事実上自動車はその領域の向こうへいけなくなってしまったのです。

まぁ、考えてみれば砂浜に自動車に乗り入れる理由っていうのは仕事で行く人はほとんどいなくて、釣り、サーフィン、海水浴(でも遊泳禁止)、黄昏etc・・・どっちかていうとプレジャーユースなんですよね。

そんな遊びでアカウミガメの卵を潰されてしまったんでは・・・、と、思われる方がいらして頑張って保護したんでしょうね。

でも冷静に考えてみると、これって自然淘汰ってことになるんじゃないんでしょうか?

自然のものである人間が作った自動車という機械で自然の産物であるカメの卵を潰してしまう・・・。

これって、ホントに理不尽なんでしょうか?

作為的に意味もなく潰してしまうのは、そりゃ良くないとは思いますけど、知らないで潰してしまうのは単なる人間の無知なだけってことなんですよね。

つまり作為的でない行為によって種の保存を妨げられるにもかかわらず産みにくるカメにも問題があるかと思うのです。

まぁ、当然カメも本能的に卵を産みにこなくなる可能性が高くなることは予想できます。

でも、それを人間が保護することにより、また産みにくるようになることが本当の保護なんでしょうか?

人間は自然の産物では無いのでしょうか。人間という自然の産物が活動した結果、淘汰されたとも考えられないでしょうか?

一部の人間によるセンチメンタリズムで多数の人間の楽しみを奪ってしまうような行為が本当に正当な行為なのでしょうか?

人間は(他の動物も)他の生命を奪いながら生きていくものです。

私個人の考えでは、動物同士の活動の中で淘汰された事柄が不正であるというのならば人間こそ絶滅してしまうのではないでしょか?

まぁ、これは極論なんですが。

今、私の考として上記のようなことは貴族の狐狩りみたいなもので、食うわけでもなんでも無く、ただ人間の楽しみだけで命を奪ってるんでカメの卵を潰して悪く言われるのなら潰さないほうがいいんじゃないかくらいに考えています。

次にイルカの話。

イルカが頭の良い生き物であることは、よく知られている所でしょう。

実際、頭のよさは人間程度だなんて言う人もいます。

こんな理由で動物保護のシンボリックな存在のひとつとなっているかと思います。

で、イルカが頭がよい話でこんなのがあります。

海上に設けたイケスで養殖された魚をイルカに食べられてしまうことがあるのだそうです。

海上の養殖場は網を張って、その中に魚を飼っているのですが、その網をイルカが自分が入れるくらいに海面下へ押し下げて網の中は侵入してしまうのだそうで、かなりの被害が出たんだそうです。

そんなことされたら養殖業者には死活問題ですから、駆除すべくイルカを大量に殺してしまったんですな。

そうしたら悪名高い某自然保護団体“グリ○ン・ピ○ス”から猛烈な講義があったんだそうです。イルカを大量虐殺したと・・・。

得意の海上講義のシーンをなんかで見たような記憶もありますが、それって業者の人からすれば“いいかげんにせいっ!!”って感じだと思うんです。

考えてみれば商品がダメにされたあげく、その原因であるイルカを駆除したらば大量虐殺だって言われ大悪人みたいに言われたら誰だって腹立つでしょう。

まぁ、この話の場合、保護団体の方もデモとかそんなのばっかりするんじゃなくてもっと自然と共存するような建設的な方向で向き合う必要があるんじゃないんでしょうか?

言いたいこと言ってるだけじゃ、権利しか主張しない奴みたいに煙たがられるばっかりだと思うんですけどね。

とまぁ、イルカの話はここまでにして、次にクジラの話。

クジラも保護の象徴みたいになっていて、欧米諸国が“クジラ”だけに捕鯨とかすると”目くじら”を立てる動物です。

昔は捕鯨って世界各国で行ってきたことではあるんですが、いつからか捕鯨禁止の方向で世界が動き出したんですな。

それってやっぱり、イルカと同じで“頭の良い”生物ってとこから来てるらしいんですけど。

今、捕鯨をしたい国って日本と他1,2カ国と聞いています。

また“世界捕鯨委員会”ってのがあって、毎年1回ぐらいのペースで開催されているらしいんですが、毎回捕鯨国と反捕鯨国とで言い争ってるシーンをTVで見かけたりします。

お互いの主張はいつも平行線で物別れに終わっているみたいですが、そんなに捕鯨っていけないことなんでしょうか?

いつも理解に苦しむのですが、“調査捕鯨”ってのがあるんですね。

これって、クジラの生態を調べるためにクジラをとっ捕まえて捕食しているものとか調査するらしいんですが反捕鯨国はこれについても禁止すべきであると主張してるんです。

でも、クジラに“何食べてんの?”って聞く訳にもいかないと思うんで、結局腹かっさばいて中身みるしか無いんですよねぇ。

そうすると、“調査捕鯨”の意味は何だ?ってことになるかと思うんですが、日本の主張はクジラが魚(イワシなんかを)大量に食ってる可能性があるんで調査したいってことだったと思います。

魚離れが進んだといわれる日本の食体系なのですが、実際、魚は多く流通しており海産物大国といっても過言ではありません。

日本はクジラに自分の食いぶちを盗られたんじゃたまったもんじゃないんで、調査したいと主張している訳ですな。

でも反捕鯨国は、すでに調査済みだと言って、それの必要も無いと主張している訳です。

しかし、反捕鯨国が提出した資料に信憑性が無いって言って日本は突っぱねる。

これっていつまで経っても解決しないんじゃないんでしょうか?

クジラの増減による生態系への影響とか、それによる漁獲高の増減とか、そういったアプローチで話した方がいいような気もするんですけどね。

なんにせよ今のままじゃ不毛な議論を繰り返しているような感じがします。

と、いくつかの事例とその考察をあげてみましたが、ここで結論めいたことを書いて見たいと思います。

まず、人間という動物は欲が深い動物なんです。自分たちのために生態系を狂わせ、自分たちの余興のために殺戮を繰り返した歴史が脈々と、今もそれが繰り返されていることも事実なんじゃないかと思います。

別にそれって他の動物に対してばかりじゃなく人間同士でも起こっていることなんですけどね。

で、まず、考えるべきことは“共存”ってことなんじゃないんでしょうか。

自分という個体が生命維持を行う場合において、刹那的には他の生命を奪い、自分の生命の糧にしなければならないことは認めざるを得ないことだと思います。

そんなミクロな視野で考察した場合は、それで結論となってしまうのですが、これをもっとマクロに、長期的に考察した場合はそうはいかなくなります。

というのも、捕食する生命体が生き長らえる為には、生きるためだけの生命を奪い続けなくてはならないのです。

そのとき、刹那的な考えで意味も無く過剰に生命を奪ってしまい、絶滅させてしまったのでは次から奪う生命が無くなることによって生命維持が困難となってしまうので、バランスの取れた手法によりその生命体の個体数をある程度維持しなくてはならないことになります。

その手法というのが、養殖であったり、捕獲制限だと思うのです。

また、人間の生態系の維持という意味では、現状無害ならば他生命体に干渉しないことだと思います。

これって、この文中でも書いたところなんですが、ある個体を絶滅させた場合で人智を超えたところで人間と密接な関係があった場合、これを回避することが不可能となってしまうからです。

これから将来、食物ばかりでなく、地球温暖化、大量のゴミなど問題が山積みの人類に明るい未来をもたらすものがあるとすれば、それは“共存”ともうひとつ“謙虚”であると思います。

自分が地球上最高の生命体であるなどとおごることなく、地球上にある生命体の一員であると考え、いろんなものと共存していゆく心がけを持つという意味で“謙虚”という言葉を使いたいと思います。

自分が自然の中の一員であると考えれば“地球”や“自然”といった人間より圧倒的に強い立場のものや含まれているものを“保護”してやろうだなんて言い方は“恥ずかしい”と思うと思いますよ。

(2003年3月17日 掲載)

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  難病指定について

−テレビ番組で紹介された“染色性乾皮症”による考察−

色素性乾皮症(以下“XP”)ってご存知でしょうか?

これは、紫外線が皮膚に照射されると火傷にような炎症をおこす病気です。

調べたところによると、健常者でも紫外線が照射されると遺伝子(以下“DNA”)の構成に障害が出るということです(“DNA”とは“デオキシリボ核酸”の英名の頭文字をとったの略称で、主にいわゆる“遺伝”に関連する有機化合物です。通常ヒトの場合は鎖状の構造をしており、紫外線、放射線などが照射されると、この“鎖”が切れてしまうそうで、この場合、DNAは正常に機能しなくなり、癌とか突然変異の原因になるようです)。

で、健常者の場合、この壊れたDNAを修復する酵素(“遺伝子修復酵素”というらしい)を持っており、DNAに異常が発生した場合、この酵素によってDNAを修復するとのことでした。

しかし、XP患者では、この酵素を持っておらず一旦DNAに異常が起こると、それを修復できず炎症となったり最悪の場合は癌になってしまうケースもあるようです。

また、このXPという病気はいくつかの型があるらしいのですがいくつかの型は神経障害をおこす場合もあり、これについては原因が未だ解明していないとのことです。

と、XPの症状の紹介はこれまでとして、何故この病気の話を今回しようかと思ったか。それは、日本の行政(この場合は“厚生労働省”)における難病指定の基準について少々疑問があったからです。

と、ここで本題を少し置いといて、XPについて何故ここで紹介する気になったかを書いておきます。

とあるテレビ番組を見ていたときのこと、XP患者の4歳くらいの男の子について、その日常生活と、それを取り巻く人々の話を紹介しておりました。

で、どんな内容かっていうと、まず、その病気になると、通常の日光が脅威となってしまうということ。

家ではカーテンも開けられず、窓は全て紫外線(以下“UV”)カットのフィルムなどを貼って紫外線をできる限り遮断するようにしておりました。

しかし、そこもまでやっても窓際にいると炎症をおこしてしまうので窓なるべく近づかないようにしなければならない。

日中外出する場合は、UVカットの素材を使った生地で作られた服を着て、頭から養蜂家が被るような帽子を被って(いわば“紫外線防護服”で)外出します。

しかし、それでも長時間日光にさらされていると炎症をおこすので、長時間出かける場合は窓にUVカット処理を施した車に乗せて移動します。

そんな感じで一日を過ごし、やっと何もしないで外へ出られるのは日没を迎えてから。

今回の場合、小さな男の子だったんで、夕暮れ近く、薄暗い公園でUV対策をしない身軽な格好で楽しそうに遊んでいる彼の表情が非常に印象的でした。

また、この子は保育園に通っているのですが、通っているこの子のために保育園では窓など日光の入るところには全てUVカット処理を施し、保育士さんも紫外線計を持ち歩いて常時紫外線量を確認しながら、この子を保育している状況でした。

ここで、私がこの話を書く気になったシーンが登場します。

その日、保育園では凧を作って飛ばすという授業が行われていました。

当然この子も凧を作って、いざ飛ばそうと外へ出ようとしたとき保育士さんが紫外線量を計測した結果、防護服を着ても外へ出るのは危険との判断で、この子は外へ出ることができなくなってしまったのです。

外では同級生が走り回って凧を飛ばしています。

そこは4歳児。自分もそうしたいのにできない。ですから泣いてしまうんですね。

「お外へでたいよぉ。」って泣くんです。窓ガラス叩いて・・・。保育士さんもなだめるんですけどね。泣くんです・・・。

そのとき、私の目頭が熱くなってきて泪が頬を伝わりました。

さすがにワンワン泣くって訳じゃないですけど、泪が出ました。ふと、これが不憫ってことなんだなぁ、思ったら余計泪が出ました(今書いてても泣きそう・・・)。

で、もう一つ。この子がまだこの病気であることが判らなかったとき、この子のお祖父さんが、この子を外へ連れ出したときのことを話されておりました。

普通、ある時期がくると赤ちゃんに外気浴をさせるようになるかと思うのですが、お祖父さん、孫がかわいかったんでしょうねぇ。多分外気浴をさせようと外へ連れていったんだと思います。

そしたら、見る見るうちに皮膚が赤くなって火傷のようになってったんだそうです。皮はめくれるし火ぶくれになるし、日陰を選んで歩いてもどうにもならなかったんだそうです。

そのときの名残で、その子には今でもそばかすのようなしみが残っており、お祖父さんはそのときのことを非常に悔いておりました・・・。

 

で、本題に入ります。

そんなXPという病気なんですが、現在のところ治療法が確立されていないとのことで治癒または根治することが無いとのことでした。

また前にも書きましたが、神経障害をおこす場合もあり、これについては解明されていとのこと。

まぁ、言わば“不治の病”っていうことになるかと思うのですが、なんとこの病気、国の難病指定になっていないらしいのです。

で、“難病指定”って一体何?ってことなんですけど、いくつかのガイドラインがあって、それをクリアしないと難病指定にならないらしいんです。

XPのケースでは見解の相違があるかもしれないのですが、私が考えるところ難病指定になっても良いかと思いました。

で、この難病指定ってどういう基準で定められるかと言うと、これが一番びっくりでした。

諮問機関が不定期に開催されるってのと、いわゆる“委員会”って形をとってること。もしかして“委員会”って政治家先生が勝手につくるいわば非公式の“勉強会”みたいな組織じゃないの?っていうことなんです。

つまり、片手間にやってるように思えます。

ちょっと、これはどうなんでしょう。少数とはいえ困っている臣民が存在するのに・・・“公務員試験”によって“選民”された役人のお偉方は、“弱いものは死ねば良い”とでも思っているんでしょうか?

ちなみに難病指定となれば、その指定された病気の原因究明、研究を国が行ったり、援助されたりするようなんで指定されるとされないとじゃぁ雲泥の差があるみたいなんですね。

 

という訳で(わたくし)的には、そんないい加減なことではなくて、早急に難病の原因解明、治療、予防法の確立の研究を行っていただきたい、っていうか、そうゆうところに税金や社会保険を使っていただきたい。

いい加減な諮問機関ではなく、省庁の正式な機関として機能するような方向で組織構成を検討してもらいたい。これだけです。

私は公務員じゃぁないんで言いますけど、公務員の皆さん、あなたたちは(行政区域の“市”じゃない方の)市民への福利厚生を生業としてお金を貰っているんですから。そこらへんを忘れないで仕事してくださいね。

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 ER(Emergency Room)

−救急医療のこと−

先日、TVで救急医療のことを放送していました。

で、つい感銘を受けてしまったのでちょこっと、そのことについて書こうかと思います。

巷には救急(指定)病院っていくつかあるかと思います。

私自身は知らなかったのですが、救急って患者さんが搬入された時点で、即、各科に振り分けられるんだそうです。

で、ここでふと疑問が発生しました。それは誰が初診をするんだ?っていうことなんですけど。

私は幸いなことに、このかたホントに困って救急のお世話になったことが無いんで判んないんですけど、多分想像では内科の医師の方がおられて、その方が診察するんでしょうかね。

TVではそこまで突っ込んだ話は無かったんで・・・。

で、最近海外TVドラマでも取り上げられているER(救急治療室)なるものが東京の方に出来たんだそうで、それをニュースで取り上げていたんですね。

で、ERってのは前記の救急病院と違って、患者さんが搬入されたらば救急室の医師の方が治療に当たって、そこで診察と処置を施した後、必要であれば各専門科に振り分けるんだそうです。

最近(2003年2月10日現在)ではインフルエンザが流行してるってんで、通常の倍の人がERに訪れるのだそうです。

で、そこの医師の方に密着取材をしたような形で(ニュースの中のコーナーでしたから)話は進んで行ってるんですけど、この勤務形態がすごいこと・・・。

まず、30時間以上の勤務時間に加えて、患者さんの数が多いときは食事もままならず、睡眠時間も3時間ぐらいしか取れないという非常にきつい勤務形態となっているようです。

そんな仕事に就く人も少なく、慢性的な人手不足なんだとTVでは報じておりました。

担当医師の方が、暇を見つけてはインタビューに応じでおられるようで、その医師の方の目は充血しており、かなり疲れておられるようでした。

私は医療に携わっていないので、どうかは判りませんが、少なくとも30時間近く勤務して3時間くらいしか眠れないとなると、かなり判断力が低下するものと思われます。

私も仕事柄、仕事が大詰めともなると無休で夜中まで仕事をしますし、場合によっては徹夜をするようなことになってしまう場合もあるものですから、その医師の身体的感覚っていうものを自分の立場にあてはめてみると、非常に大変なのはわかります。

ましてや、医師という商売は人の体を相手にする商売。ミスは許されないでしょう。

私の場合は、まだ機械を作る仕事なのでミスをしても人に怪我させたり死なしてしまうことは、よっぽどのことが無いと有り得ないんで、まだマシかなぁ、だなんて思います。

しかし、救急ともなれば生死の境をさ迷うような患者さんも搬送されるのでしょうから、これでミスをして死なせてしまったら、肉親や親戚の方になんと言えば良いか・・・。想像もつかないです。

と、言うような訳で、そんな過酷な職場である救急医療の現場に何故、身を投じたのか?

インタビューされた医師の方によると、「使命感」なのだそうです。

また医大なんかの大学教授などの偉い人たちは、救急なんて若いうちしかできない・・・、専門的でないので、やるメリットが無い・・・、だなんて思っているだろうけど、でも誰かがやらなきゃならない、とも言っておられました。

たしかに、誰も救急医療をやらなかったら大変なことになるのは明白なこと。

東京のERでも日々200人くらいが夜間来院するっていうんですから、もしERが無ければ、その200人の人はどうなってしまうんでしょう?

軽い症状のもの、我慢できる範囲のものなら良いですけど、一刻一秒を争うものについては、どうにもならないですよね。

たとえば夜間に発症して死亡してしまった場合、“運が悪かった”の一言で済ませても良いのでしょうか?

いかに保険料を多く分捕るかとかの儲け主義に走りたくなるのは無理も無いことであるとは思いますが、企業でさえ、ある程度は社会福祉への貢献を義務付けられているのに、福祉しなくちゃいけない病院がそれをしないでどうするんでしょうか?

確かに難しいといわれる医師の国家試験を合格して、やっとのことで医師になって、大病院じゃ“しがらみ”も多いらしくて、大変かも知れないけど、そんなにお医者さんって偉いの?

と−と、ちょっと話がズレてきたんで軌道修正します。

昨今の日本、個人主義、儲け主義に走りすぎて、医師であれば医師としての使命感とか、そういった類の気持ちが希薄になってきていると思います。

自分さえ良ければ・・・なんて思っても結局自分が苦しい思いをするときがくるような気がします。

他人がいるから自分が何者であるかが判る。人間は比較するものが無いと自分が何者であるかが認識できない動物だと私は思っています。

もっと、心の目を開いて、心の目に掛けた常識という色眼鏡を外して、良く現実を直視して・・・。

所詮、“常識”なんて自分の心の中で構築した幻想でしか無いのですから・・・。

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ノーベル賞のこと

 ノーベル賞とは各方面にて発明、活動することにより科学、文化などに貢献した人に送られる賞です。

 爆薬であるダイナマイトを発明した”ダイナマイトの父”化学者ノーベルの死後、彼の遺言により、彼の遺産にて発足したものです(まぁ、これは知られているところだと思いますが)。

 受賞者は有名な方々(っていうか、受賞したから有名になった場合もあるけど)が多く、日本人では量子学の湯川秀樹氏、文学では川端康成氏、などなど・・・。

 で、今回の受賞者の一人、小柴昌俊氏ですが、この方はニュートリノの研究をなされていることは知っていましたが、名前まではちょっと・・・覚えてませんでした。

 ただTV(っていくかNHKで)でたまに拝見することはあるので「あぁ、この人かぁ」ぐらいには覚えていました。

  今回の小柴氏の研究の一環である、あの「カミオカンデ」の規模っていったらそりゃもう建設、維持費だけで大変な金額になるのは明白です(ちなみに、カミオカンデに充填されている水は純水なんだそうで・・・あれだけの純水を作る装置って・・・想像もつかないです)。

 で、結局観測開始から十数年でニュートリノを観測(っていっても間接的にですが)できたんだそうで、その間にいくら金が使われたことやら・・・。

 で、小柴氏、今回の受賞インタビューにて「この研究はどのようなことに役立つのか」との質問に、「役に立たん」と言っていたのはちょっとねぇ。

 まぁ、多分報道の性で、インパクトの強い部分だけヘッドラインで抜いたんでしょうけど・・・。

 確かに素粒子学は未だ未知の部分が多すぎて、産業とかの何の役に立つかって聞かれても、「無いでしょう」と私も思いますがね。

 こんなこと書いている私も、別に素粒子の専門家でもなんでもないんで偉そうなことは言えませんが・・・。

 で、小柴氏のお話はこれくらいにして、田中氏のお話を・・・。

 企業の一サラリーマンがノーベル賞を取ったってことは、確かに珍しいことのようで、マスコミも大騒ぎしています。

 私もTVを観て「あぁ、なんかフツーのおっちゃんだなぁ(申し訳ない!!)」と、思ってしまったんですけど。

  で、田中氏についてですが、受賞するまで誰一人として(田中さんの知り合いはともかくとして)氏のことを知らなかったのではないのでしょうか?(ちなみに、近年受賞された作家の大江健三郎氏の存在についても私は知らなかったのです。)

  なんでも細胞中のタンパク質の数を瞬時に数えたり、組成を分析するという装置の主任研究者ということで受賞されたのこと。

 私のような素人には、なんのことだかさっぱり判りませんが、この装置、世界シェアの80%を誇るという、すんごい装置なんだそうです。

 私も畑は違えども技サラリーマン技術者の端くれ、企業の一サラリーマンがノーベル賞を受賞したってことは、サラリーマン技術者にとっては嬉しいものです。

 ノーベル賞って、なんか大学とか国の機関とかに所属していないと取れないみたいなところがあるような気がするんですよね。

 しかも、「それってホントに役に立つ技術なの?」みたいなもんが受賞したりして、ノーベルアカデミー(ノーベル賞の審査をする機構ね)の自己満足じゃねぇの?みたいな印象もあったりして。

 でも田中氏の場合は、その装置は各国で使用されているそうなんで、世の中の役には立っているみたいだし・・・。

 でも、ノーベル賞って基礎研究や理論に対して送られる賞のような気もするし・・・。うーん。何とも言えないなぁ。

 まぁ、いいや(←かなりいい加減)。とにかく日本人が技術的にある程度は認められたんだって思えば。

 日本はマネする技術はあっても、発想からくる技術が無いだなんで言われていたけど、そんなでも無いってことが世界にある程度証明できたってことだと思えば。

 で、そんな田中氏ですが、受賞以後、すっかり有名人になってしまって本人かなり戸惑っておられるようですなぁ。

 TVなんかでも田中氏の「まいったなぁ」みたいな表情が非常に、いい感じに見えます(大変なんでしょうけど、すいません)。

 技術者ってのは、賞とかそんなことより、自分の持っている知識、技術、技能を生かして、それを形に変えることに賭けているとこがあるから・・・。どんな栄誉も技術者から見ると、どーでも良いことだったりする場合があります。

 ノーベル賞を受賞するってこについて田中氏にはあらかじめある程度打診はあったみたいですけど、ホントにそうなった時「えっ、俺?」とか自分で自分を指差すみたいな風になるのはホント良く判ります。

 それに、親類縁者も巻き込んでもう大騒ぎ。

 田中氏の実家にいるお兄さんなんか、まさか自分ちに県副知事が来るとは思わなかったでしょう。

 かなり、副知事と頭を下げ会っていたお兄さん。副知事とヘッドバットをしてしまって苦笑いしていました。

 ノーベル賞もらっちゃって喜ぶのは良いけど、どうしたもんやら的心情が垣間見える各人の行動がなんかほのぼのします。

 てな訳で、技術立国「ニッポン」にとって、この田中氏の受賞は企業技術者の励みになるってもんです。

 モノが売れない時代にモノの中身で勝負する。これが技術者の心意気ってもんです。

 最後に、今回のノーベル賞は関係ないのですが、私がTVで見たとある工場のお話を一つ。

 この工場、東京の下町にある従業員わずか6名の工場なんだそうです。

 しかしながらこの工場、プレスじゃ「ここに持ってきて出来ないと言われたら世界中どこでもできない」っていうくらい日本一いや世界一の技術を持つ工場で、国内外の大手メーカがこの工場の技術を頼りに商談を持ちこむんだそうです。

 で、ここの社長さん、見るから職人さんで、この道一筋って感じ。江戸っ子で、竹を割ったような性格の人です。

 その社長さんが言うには「俺ゃあ、人のやれねぇって仕事しかやらねぇ。だって面白くねぇだろ?人のできねぇことやって「どうでぇ、こんちくしょう」って出来た時、あぁ、気分爽快だねぇ。これが男のロマンってもんよ」という感じに言っておられました。

 技術や技能を売る仕事に従事している方々の中でもこの言葉に賛成できる人、反対の人、ひきこもごもかと思いますが。私は賛成です。

 モノ造りに大切なこと。それは「男のロマン」です。なーんて言いたいところですが、これは一つの動機に過ぎません。

 未知の世界に足を踏み込んで探検する探検家である、とも、この社長さんは言っておられました。

 これもそう思いますがこれも一つの動機にしか過ぎません。

 別に男のロマンを感じなくても、探検家でなくても技術者はやっていけると思います。

 でも、一つだけかなわないことがあると思います。それは、前出の社長さんの言葉で「俺ぁ、いっつも仕事のことを考えている。気が付きゃぁ、あれはどうしよう、こうやったらいいんじゃないかってね」と。

 これが良い技術者となる条件のひとつであると思うし、ビジネスライクにやっていってはとてもかなわないことであると思います。

 例えば、ある技術者が8時間ある命題について考察し、残りの16時間は別のことを考えているとしましょう。

 この社長さんの場合は、寝ている時以外(寝ている時も考えているかもしれない・・・)は、そのことをずぅっと考察している訳ですよね。

 また、休み時間や出勤退勤時の移動など、仕事のことを考えていないし目に映る光景にも興味を示さなかったとします。

 でも、この社長さんは、そんな時でも考えているし、目に見えるものや聞くものなんかからヒントを得ようとしている訳です。

 少なくとも、考察する時間が長い分、多角的に物事を検討しようと思う分、実現への可能性が向上すると私は思います。

 逆にいえば、余り考察しなかったり、多角的に物事を判断しない(出来ない)ってことは、実現への可能性を低くしているとも言える訳ですよね。

 つまり、可能性だけでも負けてしまうってことは、考えない人がいくら知識に長けていても所詮は狭い知識でしかない訳で、その中から可能性を見出す場合と広い知識(他分野の知識)の中から可能性を見出すのでは、おのずと当たる確率が違ってくることは明白です。

 あと、既成の”常識”論の上にあぐらをかいている場合なんかはもっとひどい結果をもたらします。常識論を唱えていて、まず仕事が上手くいったためしはありません。私の経験上は。

 でもこれってなかなかできることではないです。

 絶対他のこと考えてる時ってありますもんね。 

 どうしても”常識”にすがりたくなる時がありますもんね。

 この情熱っていうか執念っていうか、油断していれば、ついふらふらと楽なほうに流されがちな私にとっては、ただただ頭が下がる思いです。

 てな訳で最後のお話としようと思いましたが、この話が異常に長くなりそうなのでここいらにして、この話を締めたいと思います。

 田中氏もインタビューの中で「社内では変人と呼ばれておりまして人のやらないようなことをやるものですから・・・」と言われておりました。で「・・・結果的に成功しました。」と。

  この社長さんにしても、田中氏にしても、「人のやらないようなことをやる」って簡単に言うけど非常に難しいことなんですよね。

 でも、そうしたからこそ、画期的なものや、すばらしい製品ができあがったのだと思います。

 しかも、その礎には必ず、基礎的なことの積み重ねがあるのだと思います。

 いくら自由な発想でも、それに結びつけることのできる技術、技能を持ち合わせていなと、それこそ絵空事であり、ただの「変人」になってしまうものだと私は思います。

 そして何と言っても情熱、完成させようという「執念」。大事だと思います。苦しいことにすぐ挫折してしまうようでは成ることも成りません。「成せば成る、成さねば成らぬ何事も」って訳です。

 最後に田中氏に「今、何がしたいことはありますか。」という質問に田中氏がはにかみながら「早くこの状況(報道陣から)抜け出したいですね。」って言ったところが、技術者だなぁってつくづく思いました。

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北の国から2002 〜帰郷〜

(2002,10,21 ページ概況より)

 北朝鮮の話を少し。

 24年間拉致られていた方々の一時帰国が実現した訳ですが、拉致被害者の或る方のお兄さんが弟さんの言動や行動を非常に疑っておられるような報道がされております。

 これは、少しづつ理解し合うしかないと思うんですけど、24年間もの間、異国の地で名前と言葉を奪われた状態で生活していれば、おのずと考え方も変わるというもの。

 ある民族の文化を抹消するには、言葉と文字を奪うことだと言う話があります。

 倭人(日本人)がアイヌ人の方々にそうしたように、ヨーロッパ人がネイティブ・アメリカンにそうしたように。

 そして、これって先の大戦前、日本政府が朝鮮の方々にやっていたことと同じことなんですから、私自身とすれば非難するのも少し後ろめたいような気がします。

 しかし、当事者の方々には切実な問題。肉親がなんの罪もないのに、攫われて、洗脳された上にスパイの片棒を担がされているなんて思えば、怒り心頭でしょう。

 私なんかはこんな目にあったら、怒りを通りこして悲しくなってしまうでしょう。

 ところで、北朝鮮政府は拉致被害者の方々の家族ともども日本に永住帰国しても良い(と命令された)という話があるようです。

 この件、なんか怪しいように思います。

 被害者の方々には申し訳ないのですが、これって堂々とスパイを潜入させるのと同じなんじゃないかと思うのです。

 実態は明らかではないのでなんとも言えないのですが、日本には案外スパイって人が多いと聞きます。

 一説によると「スパイ天国」なんて話も・・・。

 で、北朝鮮のスパイ工作って、わかりやすいんで案外これもそうじゃないかとつい疑ってしまうのは私の考え過ぎでしょうか。

 北朝鮮のスパイ工作の判りやすさのお話は、また後日お話します。

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