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*・時代は僕らに雨を降らしてる〜長渕剛氏について〜

*・生きていてもいいですか→MUGOん★色っぽい〜エンターテイメントとしての中島みゆきさん〜

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時代は僕らに雨を降らしてる〜長渕剛氏について〜

ここでは、歌手でもあり俳優でもあり書画をも発表するようになった長渕剛さんについて語っています。

 若者に人気がある(あった?)長渕剛さん。共に彼と歩んだ我が青春時代といっても過言ではないような気がします(でも初期の頃の彼って、あんまり知らないんですよ)。(^_^;)

 私が彼と出遭ったのはテレビ画面の中でした。当時、彼の出世作でもある「順子」という歌が大ヒットし長渕さんもテレビ画面に登場する機会が増えてきた頃のことでした。

 彼は多分どこかのライヴ(当時はコンサートと言った・・・今でもか)の途中で歌番組の中継が入って、「順子」を歌っていたと思います。

 「順子」自身はラジオから流れてくることもあったので歌自身は知っていたのですが、そのときは様子が少し違いました。

  ライブということもあり、そのとき長渕さんはギター一本で「順子」を演ったのでした。

 「・・・かっこいい〜っ!!」、これが私の第一印象でした。

 普段から聴いていた「順子」はバンド形式(シングルレコード(ふ・・・古い)で売っているもの)だったので、音源も豊富で普通の歌謡曲(いわゆるニューミュージック)でした。

 しかし!、ギター一本で熱唱する彼の姿とギターだけの伴奏。歌は歌、ギターはギターというテクニックが表現されている様子は言葉では言い表せないほど、当時に私にはカッコ良く見えたのです。

 当時、歌の流行がフォークソングからニューミュージックへの移行期でした。バンド「アリス」が絶頂の人気をはくしていた頃、ヤマハ主催の「ポピュラーソングコンテスト」(いわゆるポプコン)が長渕剛、チャゲ&飛鳥(Chage&ASKA)、中島みゆき、松山千春などを輩出し始めた頃でした。

 当時の中学生だった私の周りでも、ご多分にもれずギターが流行っていました(ギターやってるとモテたしね・・・(^_^;))。

 でも、私はギターをやってみたいとは思っていましたが、「どうしても」とか、そんなに強くはやってみたいとは思いませんでした。

 当時私の好きだった歌手は八神純子さん(でもヤマハ系)やオフコースでした。あまり、アコースティックサウンドが前面に出ない曲が好きで、また、声の質でいえば高音が透き通っているような声(いわゆるクリスタルヴォイス)が好きだったのです。

 だから、長渕さんのように高音域になると裏声になったりするようなタイプの声はあまり好きではなかったし、編曲も凡庸(尾瀬一三さんごめんなさい・・・ちなみに八神さんの編曲も尾瀬さんがやっていたりする)だったので聞き流す程度にしか聞いていませんでした。

 ところが、一変!!その姿や演奏を見て

「俺もやってみてぇ〜!!」

と、思うようになったのです。

 そんな訳で、ギターの練習を始めた私でした。ほとんど眠っていた兄貴ギターを持ち出して、しばらく「やさしいギター入門」というギター教本で練習した後、当然やるなら長渕さんということでギター譜を持っていた友人それに借りて、いざっ!!、と、思ったところ・・・

「しまった!!長渕の曲あんま知ね〜っ!!」

と、初歩的なことに気づいてしまったのです。でもとりあえず弾いて見ようと思い、いざ楽譜を見て愕然としました。

「楽譜読めね〜っ!!!」

 そうなんです。学校の音楽の授業が大嫌いだった私にとって楽譜はただのオタマジャクシの羅列でしかなかったのです(ちなみにギター教本は「やさし」かったので、コードの押さえ方と弦の指運しか書いて無かったに等しかった。教本の練習曲は結構弾けたりする)。

 でも諦めずに音符を一つづつ拾ってギター教本片手に楽譜と格闘することしばし、

「む・・・難しいぞ、こりゃあ俺にゃ無理だ!!」

 当たり前の話、当時、コードのFを押さえるのもやっとの超初心者の私がいきなり長渕さんのおかず盛りだくさんの曲を弾けるはずもない・・・。

 てな訳で、もっと練習して楽譜も読めなくてはいけないということで、この時点で長渕さんの曲を弾くことを一時断念したのでした。

 そうこうしているうちに、長渕さんの曲をそれなりに聴くようになった私にとってもう一度運命的な巡り逢いが訪れたのでした。

 それは、もう忘れてしまいましたがラジオかレコードで長渕さんのライブ(の一部)を聴いたときだと思います。

 その曲のイントロはギターのスリーフィンガーで入ってきました。そして次の瞬間!!ハーモニカが入ってきたのです!!(今思うとブルースハープだと思う)。

 別にこのような演奏スタイルは昔からあるし(カントリーミュージックスタイルだしね・・・)、彼だけの独特のスタイルって訳でもないんですけどね(長渕さんの音楽の源流には吉田拓郎さんやボブ・ディランがあると思う)。

 が、しかし、すっかり長渕流演奏スタイルに洗脳されていた当時の私にとって、これだけでも「かっこい〜っ!!」と思ってしまっているのに、さらに衝撃的な事実が明らかになってしまうのです。

 歌が進行してゆきいよいよエンディングへの間奏となった頃、あれ・・・あれれ・・・?なかなか曲終んねーぞ。と思っているとギターとハーモニカ(カッコ悪いからこれからはブルースハープにさせてもらいます)が延々と奏でられているのです。そう延々と。

 モダンジャズって、エンディングでなかなか終んない場合があって、(対外アドリブでやっている)それがカッコイイことってあるでしょ? それと同んなじことする訳ですよ。そういうライブとかの雰囲気って中学生ぐらいだと聞いたことがないと思うんですよね。当時、私の住んでいた所ってド田舎だったし・・・歌手っていったら三沢あけみさんぐらいしか来なかったし・・・。

 随所に見せるテクニック、ギターのカッティングミュートやハープの早弾き(吹き?)、すっかり私を魅了してしまいました。

 演奏が終了し、私は、

「絶対やりて〜っ!!、この曲!!!」

と、思ったのでした。その曲の名は

「巡恋歌」

だったのです。

 てな訳で、いつか巡恋歌をギターで弾いてハープを吹けるようになろうと決心した私は、鍛錬を怠ってはいけないと何故か中島みゆきさんの曲を練習したのでした(理由は「生きていてもいいですか→MUGOん★色っぽい−エンターテイメントとしての中島みゆきさんー」に書きますのでここでは割愛します)。

  しばらくして、長渕さんがテレビドラマ「家族ゲーム」に出ることを聞きました。当然チェックは怠りません。毎週欠かざず見てました(ちなみに映画化もされました。この時の長渕さんの配役の所は故・松田優作さんでしたけどね)。

 毎週見てた割には内容を良く覚えてないんですが・・・(^_^;)、長渕さんは不登校生徒役の松田洋次君の家庭教師役で、勉強は教えずに人生を教えるといった内容だったと思います(松田君はやたらひっぱたかれてた)。

 当時は校内暴力や不登校児童・生徒などが問題になっていた頃で、「3年B組金八先生」や「積み木くずし」とかいったドラマがはやっていたと思います(考えてみたら全部TBSの番組じゃん)。

 ドラマの最終回で、長渕さんが工事現場の近くを歩いていると頭の上に建設資材が落ちてきて死んじゃうんですよ。さすがにそのときは「なんじゃ?こりゃ?」と、思いましたね(この後の長渕さんのドラマって最終回で死んじゃうことが多いですけど、これがルーツかなあ?)。

 ところで、この頃の長渕さんは人生の上でも絶好調でして、タレントの石野真子さんと結婚したり(長渕さんは故郷を出るとき、「俺は石野真子と結婚する!!」って言って上京したとか、しないとか・・・)、ライブも成功していたりしてまさに若者のカリスマとして(ちょうど故・尾崎豊のように)君臨していたといっても過言ではないでしょう。

 事実私も、この頃行われた今や伝説のアコースティックライヴ「西武球場スーパーライブ」に行きたくって仕方がなかったのですが、中学生だった私には金も行動の(学校が定める学校区外から出ることの禁止という)制限があったので、大変悔しかった思いをしました。

 ところが、悲しいかな人には心変わりというものがあるんですなぁ。私が高校に上がる頃、私にとっての音楽趣味が変わってしまったのです。

 ちょうど、テクノが台頭してきた頃でした。今や伝説のバンド(オーケストラといったほうがいいかも・・・)「Y.M.O」(イエローマジックオーケストラ)が活動を開始したのです。

 今までにない電子音で構成される音とオリエンタリル(中国音楽的な)メロディー、そしてしつこいまでのリフレイン、歌も入っている場合があるのですが、声のほうもヴォイスチェンジャーで変換されていて近未来的な雰囲気に、思わず大好きになりました。

 また、もう一つ理由がありました。練習曲のつもりで弾いていた中島みゆきさんの歌の詩に知らない間にすっかり魅了されてしまっていたのです(この辺でまっとうな人生の道を踏み外したような気が・・・(笑))。

 長渕さんの方も、石野真子さんと離婚したりとかあって(それの影響かどうかは分かりませんが)ドラマなんかもあまり面白くなかったような気がします。歌も昔の歌とは違いだんだん小細工的要素をはらんできたようですっかり長渕熱から醒めてしまったのでした(私は今でも、この頃のからアルバム「Stay Dream」の前までは曲の出来が良くないように思います)。

 私も高校生という多感な時期に突入し、それのなりの自我が芽生えてきている折、長渕的ストレートな歌詞と奇をてらった曲よりも、Y.M.Oの洗練されたサウンド(遊び心もある)や中島みゆきさんの少女漫画的な絶望しかないような詩の方が自己陶酔するには好都合だったのです。 

 もう一つ、この頃からバンドが流行り出す気配がすでにあり、アコースティックギター(以下:アコギと表現します)一本とハープで演るスタイルはすでに時代遅れとなりつつあったのです。

 また、高校生ともなると洋楽にも興味を持ち出しまして、私はもっぱらいわゆるディスコサウンド(今のユーロビートの走り的なもの)を良く聴くようになるのです。また、ポップス、AORとか洋楽ジャンルの幅が広がっていったのもこの時期だったんですけどね。

 そんなこんなで、Y.M.Oと中島みゆきと洋楽しか音楽と認めないような考えになった私でして、日本の歌謡曲、ポップス、ロック、演歌などはただのノイズでしかないように思ってきてしまったのです。

 当然、長渕さんもただのノイズと言いたい所ですが、彼だけは私の中で扱いが違っていました。彼自身の存在を無視するようになったのです。今思うと、私の中から長渕さんの存在を抹殺することで、彼の存在を保護していたのかもしれません。いつか、私の心の中に蘇ってきて欲しいという、願望、祈りだったかも・・・。

 ギターの方も、だんだん弾かなくなり、バンド志望の仲間たちとバンド活動をしようと、ベースを弾くようになったのもこの頃からでした。

 高校、専門学校を卒業して社会人となり、忙しい毎日を送り、対人関係も変わり、恋愛もして学生の頃から比べればいろいろなことを考えるようになり、また、考えも変わってきました。

 二十代前半に、今までの人生で体験してこなかったヤバい目に立て続けに逢ったこともあり、このころの私は精神的に疲れていました。「誰が俺のことを分かるのか。」、「俺はいったい何なんだ。」、「生きる意味とはなんだ。」、と。今思うとアイデンティティーが崩壊していっていたのだと思います。

 ここで、長渕さんとは人生二度目の出遭いを果たします。専門学校時代の同級生が大の長渕ファンで(それも二人)で、そのうちの一人がCDを買ったからもういらないと私にカセットテープをくれたのでした。

 何本かのテープの中に「Stay Dream」というアルバムがあり、私は聞いてみました。なぜならば今まですがって来た価値観は私の中でもう意味を持っておらず、長渕さんの存在を自分の中で抹殺する意味が無くなっていたからなのです。今思うと、中学生時代に受けた感動をもう一度長渕さんに求めたかったかも知れません。

 一曲目、「レース」という曲が流れ始めました。その歌詞に私は驚愕しました。彼もまた、人生の中で数多くの挫折を味わっていたのです。気が狂いそうな程に!!。そして、楽曲の構成はやはりアコギ一本にハープで演っているのでした。今まで無視してきた音楽を聴いて、皮肉にも自分自身の音楽の原点を再確認することになってしまいました。

 また、アルバム最後の曲、アルバムタイトルでもある「Stay Dream」が流れ、またまた、私は驚愕しました。挫折の中で一筋の光明を見出そうとしている彼の主張は前向きなもので、ここ数年の私はそのことを忘れていました。「あきらめないで、Just like a boy」というくだりは「まだまだガキじゃないか。あきらめるには早いぜ!!」、と、語りかけてくるようで、その時は少し救われたような気がしました。

 だからといって状況が好転した訳でも何でも無く、自体は現状維持のままつらい日々を過ごしました。でも、どんなにつらくても諦めないでプラス思考で行こうと思って行動するようになりました。

 90年代に入って長渕さんは歌にドラマに活躍し始めました。ドラマでは「とんぼ」や「しゃぼん玉」、「RUN」や「ボディーガード」、映画、ビデオでは「オルゴオル」や「英二」などを輩出するようになりました。

 私も彼の生き方や、曲に共感を覚え、再びギターを弾き始めました。ハープを初めて吹いてみたのもこの頃です。バンドは専門学校を卒業と同時に自然消滅していて、この時は「やっぱ、一人でも音楽やりてぇなぁ」と、思っていた頃でした。

 前記でも述べた「レース」という曲を弾けるようにと練習を始めたのですが、どうもしっくりきません。私は悩みました。どうしたらカッコ良く弾けるのだろう。楽譜どおりじゃ無理じゃないかと(このときまでには楽譜が少し読めるようになっていた)。

 私はどうすれば良いか分かりませんでした。が、ふと長渕さんの楽譜の本に書いてあった注意書きに目が行きました。そこにはこのようなことが書いてありました。

 「これはライブ版ですのでハーモニカ(楽)譜は、演奏されたどおりではありません。やはり、耳で聞いてフィーリングをつかんでください。」

 !?。これはどーゆーことだ?楽譜に表現できないものを演奏してるって・・・?

 私の一番苦手なこと。フィーリング、アドリブ。これを打破するにはやはり何回も聴くしかない!!。ということで弾きたい曲が収録されているCDを何回も聴いて、ギターはコードを見るぐらい、ハープはほとんどを楽譜を見ないで、ひたすら練習しました。

 そんなことをしているうちに、長渕さんの曲の傾向らしきものがおぼろげながら見えてきました(私は「長渕パターン」と呼んでいる)。

 そして、長渕さんになりきるため、黒いロングコート、バンダナ、そしてサングラスをして練習してみたりしました(一人でやってるとなんかバカみたいだったけど・・・)。

 自分でいうのもなんですが、涙ぐましい(?)努力の甲斐あってか弾きたい曲は大体弾けるようになりました。でも、それは楽譜どおりではありません。(しかし、それはそれなりに聞こえてしまうのがナルシスというか自画自賛というか・・・(笑))。

 そして、その日は訪れました。ある日、あるギター譜を手に入れたのです。その曲の楽譜に一通り目を通し、私は弾き始めました。やはり楽譜をほとんど見ないで。

 曲の最後になり、ギターを掻き鳴らす私は達成感に包まれていました。やった!遂にやった!!そう、私は「巡恋歌」79’ライヴヴァージョンを遂に弾くことができたのです。弾こうと思い立って十数年の歳月が流れていました・・・。

 それからも長渕さんの曲はアルバムが発売されるたびに、すぐGetして聴いていました。昔とだいぶ曲調も変わってましたが、それは別に気になりませんでした。なぜならば、私は詩の方を重視するようになっていたからです。

 また、 昔日の思いが思いがけなく叶うときが突然やってきました。92’のツアー「Japan」でした。通常のライヴは何回か足を運んでいたのですがバンド形式のものでした。私にとって、それはそれなりに「あり」なライヴではあったのでそれなりに盛り上がっていました。

 しかし、92’のツアー「Japan」東京ドーム公演だけは違いました。東京ドームに6万人を集めるこのライヴは、な、なんとっ!!アコースティックライヴだったのです。東京ドームの二塁ぐらいの位置に円形のステージを設けて長渕さんがギター一本で演るという情報が流れてきました。

 まさか今更アコースティックライヴを長渕さんが演るとは努々思ってはいなかったので、思わぬ出来事に言い知れぬ喜びとノスタルジックな思いに思わず感動の嵐でした。今すぐチケットをGetせねばっ!!金もあるし、仕事も無理矢理休んじゃえっ!!(おいおい・・・(^_^;))と、思っている矢先、カセットをくれた専門学校時代の同級生から電話がかかってきました。

 「おまえ、東京ドームのライヴ行くんだろ。チケット取っといたからな。ライヴ終わったら新宿で飲もうぜ。」

 いや〜、持つべきものは友ですなぁ。私は労せずこのチャンスをつかんだのでした。同級生によると、チケットは予約開始から30分でソールドアウトになったんだそうで(6万人分全部!!)、私の機動力ではとても手に入れることはできなかったでしょう。

 そして運命の日、首尾良く会社を休むことができた私は意気揚揚として東京に向かいました。東京ドームに入場しライヴのパンフレットとキャラクターグッズを買って指定された席に向かいました。

 普段はプロ野球のテレビ中継でしか見ることが無い東京ドームでしたが、この日は野球の時とはその様相が違いました。

 セカンドベース付近に設けられた、高さ3メートル、直径10メートルぐらいはあろうかと思われる円形のステージは黒く聳え立ち、上部のステージ部分だけが白くなっており、すでに機材がセッティングされていました。

 照明とスピーカーが設置してある櫓はドームの中央部分までの高さがあり、その催しの規模の大きさを物語っていました。

 ステージ下方脇には、スタジオレコーディングで使うような大きなミキサーが置いてありました。ミキサーからは無数の電線がぐねぐねと、四方八方に伸びていました。

 ステージを取り囲むように観客用の椅子が置いてあり、それらはグランドを埋め尽くしていました(それだけでも2万個はありそうでした)。

 チケットに記された席は一塁側中段ぐらいの位置でした。その席は、ちょっと遠かったけどちょうどステージを見渡すことができる席でした。

 東京ドームはテレビで見るよりも狭く感じられ「本当にこの中へ6万人も入れるのだろうか?」と、思ったくらいでした。

 それでも、今から始まろうとしている最高になろうかというステージに期待を膨らませ、開演を待ちました。

 いよいよ開演。ステージ上に長渕さんが登ってきました。黒いロングコートを着て、黒いバンダナを頭に巻き、黒いサングラスのいでたちでした。

 ギターを抱え、ハープを首から掛け、ギターのチューニングをチェックして・・・。いよいよ、長渕さんはギターの弦をピックで叩きはじめました。

 Fm(カポを2フレットにつけていたのでEm)で始ったその曲は、やっぱり「巡恋歌」でした。最近、長渕さんがライヴの最初に演る曲でしたから予想はつきましたが、やっぱり嬉しかったなぁ。

 あまり、内容を書いてしますと著作権に抵触していまいそうなので止めておきます(気になる方はライヴのビデオが発売されているのでレンタルなり、買うなりして見てみてください)。

 これだけ書いとこう。アンコールの時、長渕さんは昔の曲と未発表の曲を演ってくれました。長渕さんもこのライヴにかなり入れ込んでくれていたようで、往年のファンにとってはすっごく良かったと思います。

 ライヴが終わり、その余韻を残しつつ友人とともに新宿の居酒屋でライヴの反省会(私がライヴやった訳じゃないんですけどね・・・(^_^;))を行い、大いに盛り上がりました。

 新宿にホテルを取ってあったのですが、ホテルに行く道すがら副都心にわざわざ回り道して都庁を見上げたりして・・・。すっかり浸ってしまいました。

 それから数年、昔日の思いも果たせ目標であったことも達成できたこともあったのか、それまでの長渕さんへの思いに多少変化が現れました。

 それまでは、長渕さんの曲を弾いたりすると結構ハイテンションになっていたのですが、その頃からはそうでもなくなってきたのです。それに、以前のようにアルバムが出ても速攻でGetするようなことも無くなりました。

 でも別に興味が無くなった訳ではなく、今でもふとギターを持つと長渕さんの曲を弾いたりします。

 多分、長渕さんに対するスタンスが昔と違って、ひとつ外から見るようになったんだと思います。つまり、長渕さんの曲を演って長渕さんに同化するのではなく、「人間」としての長渕さんを「人間」として私が観察する、と、いったことになっているんだと思います。

 最後に、私の紆余曲折の人生の中で、長渕さんの存在はターニングポイントで登場してくる人生の道標的存在であると思います。

 その証拠に、三十代に入ってなんだか自分の生き方に自信らしきものが持てるようになってきました。全てがという訳ではありませんが、長渕さんの影響が一因になっているということはまず間違えないでしょう。

 ですからこれからも長渕さんのこと、ずっと見ていきたいと思います。

 長渕さん、悦っちゃん(志穂美悦子さん:長渕さんの奥さん)、子供達を大切に・・・。恋愛も良いけどほどほどに。それからヘンな薬やっちゃダメですよ。

 そして・・・、ほんとうに・・・、ありがとうございます。これからも私の人生に登場してきて貰えるような素敵な曲を書いてくださいね

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生きていてもいいですか→MUGOん★色っぽい

〜エンターテイメントとしての中島みゆきさん〜

ここでは、作詞、作曲、小説にと多方面で活躍されている中島みゆきさんについて語っています。現代の歌姫、絶望の女王,みゆきさん(対峙して山崎ハコさんがいますが)。..

ところで、歌の世界の彼女とラジオDJの彼女は果たして本当に同一人物なのか?

 

 最初の出遭いは、中学生の頃。同級生がみゆきさんの歌が好きで私の家に遊びに来た時、みゆきさんのアルバムを持ってきました。

 当時、私の家にはコンポなんていうお洒落な贅沢品などなく、ポータブルレコートプレーヤー(ターンテーブルがEPレコードの大きさしか無いヤツでLPをかける時はトーンアームの留め金をひん曲げないとレコードに傷がつくという代物)で、そのアルバムを聞くことにしました。

A面の一曲目が始まりました・・・。

「うらみまぁ〜〜〜〜〜すぅ、うらみまぁ〜〜〜〜〜すぅ、あたし優しくなんかぁ、無いもぉ〜〜〜〜〜のぉ〜〜〜〜〜。」

 そう、みゆきさんのアルバムの中で最大級に暗いアルバム「生きていてもいいですか」だったのです。

 当時、中学生だった私は、それ自体について暗い明るいだのの理解よりも、そこから流れてくる音自体が理解できませんでした。

 それでも、同級生は「いいなぁ、中島みゆきは・・・」と、もらしていました。「そおかぁ?」と、私は思っていました。まさか数年後にはどっぷりハマってしまうとは、この時想像もつきませんでした。

  ところで当時、歌の流行がフォークソングからニューミュージックへの移行期でした。バンド「アリス」が絶頂の人気をはくしていた頃、ヤマハ主催の「ポピュラーソングコンテスト」(いわゆるポプコン)が長渕剛、チャゲ&飛鳥(Chage&ASKA)、中島みゆき、松山千春などを輩出し始めた頃でした。

 当時の中学生だった私の周りでも、ご多分にもれずアコースティックギターが流行っていました(ギターやってるとモテたしね・・・(^_^;))。

 初めは長渕剛さんでした。彼に触発され「長渕剛の曲、ギターで絶対弾けるようになるっ!!」と、心に決めた私でしたが、訳あって一時断念しました(詳細は「時代は僕らに雨を降らしてる〜長渕剛氏について〜」に書きますのでここでは割愛します)。

 でも、ギターの練習をしたい私。可能性を示唆し始めました。今、自分の周りあるギターを弾くために一番手に入り易い音楽ソースは何か・・・。

 答えは簡単でした。前述した同級生がみゆきさんのアルバムをほとんどと言って良いほど持っていたのです。レコード屋に楽譜も売っていて、立ち読みしてみると「おっ!案外簡単かも・・・。」と思っていましたので、みゆきさんの曲で練習することに決めました。

 同級生にアルバムを借りて、楽譜も買って、ギターの練習を始めました。当時買った楽譜によれば、ギター教本である程度練習すればそれなりに弾けるような内容(中には難しいのもあるけれど)でしたので、みゆきさんのいろんな曲をひたすら弾きまくりました。

 おかげでギターの方は序々に上達して行きました。が、しかし、これがケチのつき始めだったのかそれとも運のツキだったのか(いずれにしても表現が良くないな・・・(^_^;))。

 初めのうちは歌詞に興味などまるで無く、ただギターの練習の為に聞いていたみゆきさんの曲でした。しかし、そこはそれ、ギターだけ弾いていても歌が合わせられなければしょうがないので、歌詞を覚えました。 また、当時楽譜があまり読めなかったので耳コピーでギターを弾いていました。

 でも、歌詞を覚えると言うことは学校の古典の授業で習う「春はあけぼの」のように興味が無いことを丸暗記するのとは違います。やはり興味あることをやっている中での副次的ことではあっても、それなりに理解しようと努めるものです。

 英語の学習もヒヤリングや発音を繰り返しすると覚える、といいますが、繰り返し聴いているうちにみゆきさんの歌詞を意識的にか、無意識にか、もう覚えてはいませんが理解しようとしてたのだと思います。

 また元来、私の音楽的興味は歌詞とか言うよりも楽器構成や編曲構成、声質(昔、吉川浩司君が「声も楽器である」と言ってたなぁ・・・(笑))などが興味の対象で歌詞自体にはあまり興味がなかったのでした。

 そんな訳で、歌詞とかの意味に全く無関心だった無防備な私の心に、歌詞に乗ったみゆきさんの世界が「刷り込まれて」いったのでした。

 当然。みゆきさんの歌詞はというと・・・、失恋、絶望(しかも立ち直れない)、裏切り、叶わぬ希望、皮肉、等などの表現が目立ちますので悲劇の主人公になりきり自己陶酔するのはうってつけの材料だと思います。

 また、中学生ぐらいじゃ別に失恋も絶望も挫折も裏切りとかの経験大して無いでしょう。それらが擬似的に体験できる、今風に言えばヴァーチャル・リアリティーをそこに求めることによって同世代の連中よりも一歩前へ出たかったのだと思います。それにカッコいいでしょ、同世代の人より経験が豊富だなんて(でも擬似的)。なんとなく・・・。

 と、まあ色々なことを書きましたが、要するに中学生の私はみゆきさんの歌詞に魅了されてしまったのです。

 今思うと嫌な中学生だなあ、と、思います。だってそうでしょ、失恋は置いといたとしても、ちょっとしたことで人生に絶望してて裏切りに消沈し、希望は叶わないと嘆くは皮肉っぽいわで・・・。別に大した体験してるでもないのにねぇ。知ったかぶりの煙たがれるタイプ・・・。今だったらいじめ殺されてるかもしんない・・・(^_^;)。

 でもまあ、この頃はみゆきさんに共感している連中もいましたから、別段いじめに遭ったことも無かったですけどね。それに、この頃住んでいたのはド田舎で、みんな純情で素朴でしたから素直に気の合った連中で仲良く自己陶酔に浸ることもできましたしね。

 そんな訳で、嫌な中学生の私はみゆきさんの世界を引きずりながら高校へ進学したのでした。

 が、しかし、高校生ともなると段々考え方が変わってくるものです。周囲の連中は実際の経験を元にどんどん精神的に成長して行きました。

 ところが私は、すでにヴァーチャルな経験を済ましているので、当然、経験しようとかいう行動を起こそうとは思わなかったのです。ここに私にとっての人生の失敗があったのではないかと思います。

 つまり、実際に経験しそうになると、それを察知して事前に回避する態度をとったのです。「それは嫌なことだから止めとこう。」とか、そうゆう風にかわせて行けるつもりでした。

 しかし、そうは問屋が卸さなかったんですなぁ。「高校デビュー」って言葉がありますが、中学時代に悪くなくっても高校生になると悪くなる、またはなろうとするってことがあるんですよ。

 また良いタイミングで漫画の「Be−Bup High School」とか不良漫画が流行り出したして。短ランに渡り65cmの3タック入りボンタン、パーマリーゼントなんかくれちゃったりするヤツとか出てくる訳ですよ。

 つまり、結構攻撃的な要素を回りの連中も持ち出してくる訳で、別に不良っぽい連中に嫌がられてる訳じゃ無かったんですけど、ヘンなことするとすぐ怒ったして、理不尽なことに腹立たしさを覚えるようになってきたのです。

 また、先輩、後輩の縦関係も中学時代と比べればさらに厳しくって、先輩にちょっとでも挨拶しないとすぐ部室に監禁されて説教をこかれ、殴る蹴るの暴行ですよ。先輩には絶対逆らえなかったので反撃するのもままならなかったのでした(逆らおうもんなら、その先輩だけじゃなく一学年全員の先輩から攻撃されるんだもん)。

 額から血を流しつつ「ひとつふたつ上のヤツになんでこんなにされにゃいかんのだ。」と、理不尽さに腹立たしさを覚えるようになっていきました(でもまあ私はそんなに目立つ方じゃなかったんで、そんなに説教をくらったことは無かったですけどね)。

 てな訳で、多感な時期となる高校生ぐらいの年齢では、ちょっとしたことでも大いに感情的になるのでした。

 バーチャルな経験ではかわしきれない現実に、私は困惑しました。感情的にも不安定で、そのときは非常につらかったのを覚えています(今思うと、そんなこと大したことじゃなかったなぁ、って思います。やり方によっちゃどーにてもなったような気がします)。

 そんなとき、よりどころとなるのはみゆきさんの世界でした。絶望に彩られたその世界に身を委ねると「フッ・・・、俺ってなんて不幸なんだ。きっとこんなに不幸なのは全校生徒(←このスケールの小ささがミソ)通じて俺だけだな。」なんて、及川光博(ミッチー)も裸足で逃げ出すよな自己陶酔ぶりでした。でも、そのときは自己陶酔してるだなんて感覚はまるで無く、マジでそう思っていました・・・(笑)。

 また、もうひとつ考えられるのは私の中に「もうひとりの私」がいて、そのもう一人の私に不幸を全部背負わせていたのかもしれません。「もう一人の私」は精神的な存在であり、肉体的にはつながっていないので感覚としての苦痛はそんなに感じずにいられ、実際の私はもう一人の私と精神を部分的に共有して伝わってくる感覚を自己陶酔という快感に昇華させていたのかも知れません。

 高校も進級してゆくうち、その傾向はさらに進行してゆきました。感情という名の苦痛から逃げるため私は仮想世界へたびたび逃げるのでした。その頻度は年を追うことにひどくなっていきました。

 高校三年生にもなると、すっかりその形態は完成しました。そして、自分の信じるもの以外は否定、あるいは無視し、心の中で存在を抹殺することでアイデンティティーを維持するようになっていました。

 とりわけ音楽にはその傾向が顕著に表れていたと思います。特に日本の音楽について、みゆきさんと今や伝説のテクノバンドY.M.O(イエロー・マジック・オーケストラ)以外の音楽の大半は私にとってたのノイズでしかなかったし、ノイズではないものも無視する存在でした(今思うと全てを否定しなかったのが救いだったのかもしれない)。

 そして、高校を卒業し、専門学校へ進み、就職しました。その間も日本の音楽に対する考え方は変わりませんでした。

 ところがどっこい、就職した後はそうはいきませんでした。ついに私にも恋愛する時がやってきたのです。その娘はみゆきさんの歌が好きな娘で、話も合ったし(今思うと合わせてくれた?)この娘なら付き合っていける(くれる)、と、思ったのです。

 そう思った日から、私は彼女へ怒涛のアタックを開始しました。自分的には、いままでの知識と経験を総動員してアタックを敢行しました。

 で、案の定、玉砕してしまいました。つまり失恋しました。当時、女に費やした情熱の中で、彼女が過去最大級のものだったのでショックは計り知れませんでした。別れるのは付き合うのより大変だと言いますが、ホントです。この時、私がなんとか彼女を振り向かせたいと思って費やしたエネルギーは核分裂時に発生するエネルギーをも凌駕すると思ったものです。

 今思うと、私ほどではありませんでしたが結局彼女もある程度、仮想世界の住人だったのだと思います。だって「類は友を呼ぶ」って言うでしょ。まあ彼女の家庭環境もせいもあったんでしょう。結構つらい人生を歩んできたみたいだったし・・・。

 また、彼女はそのとき付き合っていた男がいたんですよ。当然分の悪い勝負だったのですが彼女によると付き合っている男とはうまくいっていないと言うので、つい私にもチャンスがあるかと期待してしまったんですな。私はうまいこと彼女の鞘当か慰みものになっていたみたいでした(別にそれでも良かったんですけどねぇ、当時は。でも今思うと・・・哀しい(T_T))。

 で、今まで仮想世界に逃げ込んでいた私でしたが、このときばかりはどうしようもありませんでした。あまりにもつらかったのです。今までのつらかったことなんて「屁のツッパリはいらんですよ」みたいな感じだったことを痛感させられました。

 また多分ですが、いままで自分の不幸をしょいこんでいた心の中の「もう一人の私」がいなくなっていたのだと思います。何処に行ったかって?。それは具現化して私の前にいました。

 そう、彼女です。多分ですが「もう一人の私」の正体は「想像(理想)の女」だったのかも。そうであれば、当然その「女」はみゆきさんの歌詞の中に出てくるような女であったのでしょうから。それをみゆきさんの歌を好きな彼女へと変換して、私は彼女へ愚痴をこぼすことによって今まで背負わせていた「もう一人の私」の代わりに彼女へ背負わせていたんだと思います。

 私、実際には「もう一人の私」を意識していなっかた(できなかった)ので判らんのですが、多分「もう一人の私」は私本体にはかなり従順であったのだと思います。だって、あれだけ不幸を背負いこませても私本体には愚痴一つこぼさないのですから・・・。

 彼女も実際、よく私の話を聞いてくれました。また彼女も、よく私に悩みを相談しました。

 もし彼女が「もう一人の私(想像(理想)の女)」であれば、それは衝撃的な出来事でした。なぜなら、いままで黙っていた「もう一人の私(想像(理想)の女)」が私に対して口をきくことなど考えられなかったし、さらに不幸を背負わせているにもかかわらず私を頼ってくれるのですからね。

 すっかり彼氏気取りの私は、いよいよ暴挙に出ました。私は私の都合のいいように彼女の性格を勝手に決めてしまったのです(でも私にはそういう意識がありませんでした)。

 当然、理想の女として彼女を見ているのですから彼女の行動で理想と反することがあると、不快に思うようになりました。その不快さは段々苛立ちとなって私を襲いました。

 彼女も結構奔放に行動するので、ついに私は彼女の行動や態度が耐え切れなくなり自分から決別(永訣といったほうが合ってるかも)することにしました(別に付き合ってた訳じゃないのにねぇ)。

 彼女にそのことを伝えると、彼女は悲しそうな感じの表情はしていましたが、「あ、そう。」みたいな感じで返事をされました。いわゆる「超ムカつく」という感情がぴったりの返事でした。

 結局、自分から決別したクセに彼女には「裏切られた」という風にしか私には思えませんでした。まあ、「もう一人の私」説で行けば、いままでずっと従順な彼女が私の意に反するような行動をとり、しかも勝手に離れてゆくのですから当然と言えば当然か・・・。

 このとき、本当は彼女に戻ってきて欲しい、というのが私の本心でした。でも、私には離れて行く彼女を止めることができませんでした。そのときの私は考え方が変に凝り固まっていたんでしょう。私は「去るものは追わず」的美学を実施することによって彼女との相対的な自分の地位を確立しよう、彼女より大人なところを見せてやろうじゃないか、というささやかな抵抗を試みました。

 で、結果はというと、意に反した行動を取った為の苛立ちに押しつぶされてしまいました。彼女の方が年下でしたがよっぽど大人でした。

 このままだと、私の失恋話に終始しそうなので次の話題へ移ります(あんまり思い出したくないし・・・(-_-メ))。

 そんな訳で、失恋によってよりどころを失ってしまった私でした。悪いことって続くもんなんですよねぇ。それからまた人生最大級のピンチが色々と立て続け襲ってきました。

 いままで、培ってきた仮想世界という防波堤はすでに無く、外は荒れ狂うピンチという名の海。今までの私の考えでは突貫工事で防波堤を作ることが必要でした。

 いろんなものに、よりどころを求めました。ところが、荒れ狂う波はいくら工事をしても基礎ごと根こそぎさらっていってしまうのです。

 あんまり上手く行かないものですから、私は精神的に疲れ果ててしまいました。自分の存在が訳のわからないものに思えてきていました。アイデンティティーが崩壊していったのです(このとき宗教に勧誘されてたら迷わず入信してたかも知れない・・・。そしたら例の殺人教団だったりして、今ごろ死刑になってたりして・・・(@_@))。

 「可愛さ余って憎さ百倍」とばかりに、「こんなことになったのも、あいつのせいだっ!!!」と、彼女を逆恨みするようになりました(彼女にとっちゃ迷惑な話でしょうが)。

 しかし、私の都合がどうであろうがピンチは待ってはくれません。私はまるで、Y印乳業の経営陣のように事後対応することしかできなかったのです。体制を立て直すどころの騒ぎじゃありません。

 「先手必勝」とは良く言ったもので、物事をいうのは基本的に後手に回るような対応をしていると良くて現状維持、悪ければ事態を悪化させるだけのような仕組みになってるようです。突然発生した事象に対してその時点では事後対応でも、それから後で先手を取って行けば少なくともずうっと事後対応してるよりは早く問題が解決するものみたいです。

 てな訳で、なんとか現状維持をしていた私でした。でも、考えてみたら「現状が人生最悪な状況なのに、それを維持してどうするって言うんじゃ!!」ってことは、痛いほど判っていました。

 そんな状況の中いよいよ、みゆきさんの世界から決別する時がやってきました。ここで長渕剛さんの登場です。

 中学生以来、みゆきさんにハマってからは長渕さんの歌を聞いてませんでした。縁あって(詳細は時代は僕らに雨を降らしてる〜長渕剛氏について〜」に書きます)久しぶりに聞いた長渕さんの歌。私は中学生以来の感動を久しぶりに体験しました。

 私は、「まだまだこれからじゃないか。」という気持ちになることができました。それによって少し冷静さを取り戻し、心の余裕が少し出来た私は、すっかり崩壊してしまっていたアイデンティティーの破片を拾い集めて再構築することにしました。過去に培ってきた価値観をむざむざ捨ててしまうようりも、再検討して構築し直すことで、早期のアイデンティティー修復を試みたのです。

 そして、アイデンティティーの破片の再検討、再構築を始めました。でもこの間もピンチは継続して発生しており作業はサン・ピエトロ寺院のフレスコ画の修復のように難航を極めました

 特に「いるもの」、「いらないもの」の分別が難しかったと思います。「いらないもの」の中の大半はみゆきさんの歌にハマってから以降の考え方でした。

 また、修復に必要な接着剤が不足していました。その接着剤の名は「経験」、「実体験」でした。こればかりは金で買えるもんじゃかったので、行動する以外に方法が無かったのでした。

 何でも体験するという、今までの自分の主義に反するようなことをやらなくてはならなかったのも結構苦痛でした。

 作業を開始して数年が経過し、いよいよアイデンティティー修復作業は終了しました。この時点で、みゆきさんの歌に対する私の考えは、すっかり変わってしまいました。

 検討の結果、みゆきさんの歌詞は想像の世界での出来事であるから、それを疑似体験として習得しても意味が無い、という結論に達しました。

 また、これがみゆきさんの歌とについて考え直す最大の理由なのですが、歌詞とか聞いたり読んだりしてみると、結構少女漫画みたいな世界に思えてくるようになっていたのです。具体的には上手く言えませんが、「そんなこと有るわけ無いじゃんか。」、とか、「それはちょっとどうかな?」などと異を唱えるような事柄が多いように思えてきていました。

 その点、長渕さんの場合は(確認できている訳ではないですが)、なんか実際に歌の歌詞通りのことやってそうな感じがするんですよね。たとえば歌詞の中に「血を吐く」とか出てくるんですけど、ある情報によると歌いすぎてホントに喉から血が出た。なんてこともあったみたいですし・・・。

 そんな訳で「意味の無いものにいつまでも関わっているほど俺は暇じゃねーぜ。」ということで、とりあえず、みゆきさんの存在を無視または軽く否定することにしました。

 そこで、私は所有しているみゆきさん関連のものは全て捨ててしまいました。私は、何か止めるときは後悔しないように、それに纏わる品物は全て自分の周りから排除してしまうようにしています。必要なら、また手に入れれば良いし・・・(手に入らないものの場合は捨てません・・・(^^))。

 当然無視する訳ですから、各メディアから流れてくるみゆきさんの情報も無視しました。歌も聴かないようにしました。ってゆうか過去のことを考えると、聞きたくありませんでした。

 でも、みゆきさんの歌を聞かないってのは難しいものです。なぜならば、みゆきさんの歌は、みゆきさん本人だけが歌っている訳じゃないんですよね。また、テレビやラジオの音楽番組を見たり聞いたりしなくてもドラマやニュースを見ていれば、たまに主題歌や挿入歌として登場するんです。

 最近はそうでも無いですが、みゆきさんは他の歌手に歌と曲を提供する場合があります。古いところでは、研ナオコさん、桜田淳子さん、日吉ミミさん、増田恵子(元ピンクレディーのケイ)さん、俳優では根津甚八さん、古手川祐子さん、大御所では加藤登紀子さん、最近では工藤静香さんとか・・・。

 工藤静香さんに提供していた歌としては、「FUJITSU」とか、「MUGOん・・・色っぽい」や「黄砂に吹かれて」等々があります。記憶にある方も居られるかと思いますが、そんな暗く感じなかったでしょ?

 でもね、みゆきさんが歌う「黄砂に吹かれて」って暗ぁ〜いんですよ。編曲のせいもあるんでしょうが、歌い方でしょうね、暗く感じるのは。(ちなみに、みゆきさんは「私が歌えない曲は他の人には提供しない。」と、いうのを雑誌か何かの記事で読んだことがあります。と、いうことは・・・。「MUGOん・・・色っぽい」も歌うんだろうか・・・(^_^;))。

 また、みゆきさんの歌は暗いだのなんだの世間的に言われますが、テレビやラジオのディレクタやプロデューサは、何故みゆきさんの歌を起用するのでしょうか?やはり、みゆきさんの世界が、色々な人の共感を呼ぶような世界なんでしょうね(野島信司さんのドラマで起用されることが多いような気がするのは、私の気のせいだろうか?)。

 閑話休題。みゆきさんの歌を聞かなくなった私でしたが、意識せずとも各メディアを通じてみゆきさんの情報は入ってくるのでした。初めのうちはなるべくなら聞かないで置こうと思うのですが、時間が経つにつれ、知らないうちに聞いてるんですよ、これが・・・。一応感情移入はしないにしろ、結局、聞いてしまう私でした。

 そんなこんなで、みゆきさんの歌に対する態度について「どうしようかなぁ」と思っている矢先、また考え方が変わる事件が起こりました。

 たまたま、TBS系のニュース番組「ニュース23」を見ていると、番組の中で、みゆきさんにインタビューするコーナーがありました。

 なんでも、みゆきさんの「夜会」(普通のコンサートもやりますが、数年前からみゆきさんは芝居や演劇をコンサート中に取り入れたものもやるようになって来ていました。この形態のコンサートのことを「夜会」と言っています)が話題のようで、筑紫哲也さんが卒無くインタビューしていました。

 動く映像で見るみゆきさんは久しぶりでした。みゆきさんは滅多にテレビに出ない人でしたから・・・。これより数年前にフジテレビ系ドラマ「ハートに火をつけて」の最終回に産婦人科医の役としてちょっと出演したことがあるのですが、それ以来でした。

 みゆきさんのレコードやCDジャケット、雑誌のモノクロスチールの映像って結構不鮮明なんですよね。紗のかかっていない(笑)しっかりしたみゆきさんの映像を見るのは久しぶりでしたので、つい見てしまいました。

 昔からみゆきさんの映像は見ていたつもりでした。でもその映像の中に昔、気づかなかった点が一つだけありました。私はそれを発見したとき愕然としました。

 目がすっごく綺麗なんです。きらきらしてて、黒目がはっきり黒くて、白目も黄ばんでないし、あの年代の女性にしては綺麗すぎるぐらい綺麗な目だったのです。まるで少女のよう・・・。

 その時、私は数十年来思ってきた「中島みゆき」という人について、考え違いをしていることに気がつきました。

 みゆきさんは歌手ではなく、アーティストだったんです。訳すと「芸術家」ってことになりますが、まさしく芸術家だったのです。

 みゆきさんは歌という媒体を通して、自分の中に存在している精神世界の一部表現しているに過ぎなかったんです、きっと。

 私は「中島みゆき」という人は、みゆきさんの歌の歌詞の中に出てくるような女の気質を持っているのだと思っていました。で、ラジオDJの時のハイテンションは後から培った性格であると思っていたのです。

 でも、それは多分違います。DJの時のみゆきさん、歌う時のみゆきさん、どちらもみゆきさんの気質でも、性格でも無いと思います。それは、みゆきさんの表現方法にしか過ぎないのです。

 多分、普段のみゆきさんはDJの時のみゆきさんに近いというのは想像がつきます。それの方が自然体のように思えるからです。みゆきさんの自然体というのは、多分、普通のおばちゃんと余り変わらないと思います。ただ、みゆきさんがそんじょそこらのおばちゃんと違うのは、みゆきさんの表現力と行動力が卓越している所だと私は思います。

 みゆきさんの根底には、歌詞のような女も、DJの時のような人も多分いるんでしょう。みゆきさんはTPOに合わせて引き出しを開けて、それらを取り出しているに過ぎないのです。

 ちょっと誉めすぎのような気もしますが、私はその時そう思いました。あの目・・・。あれは希望が無かったり、恨んだり、蔑んでいたりしている人間の目ではありません。

 そう、なにか純粋に物事に取り組む、それだけしか見ていないような・・・。そんな目です。

 で、これ以降、みゆきさんの歌に対する考え方が変わってきました。みゆきさんの詞や曲はみゆきさんが表現しようとしている作品であると思うようになったのです。たとえるなら画家が個展を開くようなものだと・・・。

 そうであれば話は早いんですよ。私は、個展に行き「あ、この絵はいいなぁ。」とか「この絵はちょっとなぁ。」と、批判していれば良いんですから。そう思うと、なんだか気持ちが楽になりました。

 てな訳で、みゆきさんの歌については、別に特別な存在ではなく、一人のアーティストの作品として評価しようというスタンスが現在の私の考え方となっています。

 みゆきさんの歌って良い歌詞多いですよ。希望が持てる歌も結構ありますし・・・。ただ、あの歌い方と編曲が暗いだけなんです。そう思って聞けば、何の害も無いものなのです。

 最後に・・・。

親愛なるみゆきさんへ

 あの頃、まだほんの若造だった私は、みゆきさんの世界に魅了され悪い方向に考え方が進んでしまいました。

 それは、みゆきさんが悪いわけではありません。当時の私の周りの環境と、私の気質上の問題で私が勝手にそう思い込んだことによって、そうなってしまっただけです。

 おかげで一つのことに凝り固まらず色々なことを考え、行動できるようになりました。これもみゆきさんの歌が好きになったことが一因であると、私は事実として認識しています。

 私の人生の中の考え方の半分を占めていたみゆきさんの歌。そう簡単に捨てられるものではありません。

 これからはみゆきさんの歌、ちゃんと分別をわきまえて素直に聴けると思います。

 散文となってしまいましたが、これからも、良い歌作ってください。期待しています。

 このページの文章上、みゆきさんのこと悪く言っている事柄もあると思いますが、私の人生の中での出来事は事実であり、考察上そのような結論に達することになってしまった場合もありました。このような文章になってしまうことは、私の不徳の致す所です。どうか平に御容赦ください。

 最後に・・・、みゆきさんの歌が好きになっていなかったら、私は世間や失恋のプレッシャーに押しつぶされ、もっとつまらない人間になっていたか、今ごろは、この世にいなかったかも知れません。

 ですから・・・、ありがとうございます。感謝しています。私の人生の中に登場してくださって・・・、本当に。

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