平成16年12月28日(火)

年の瀬だから、今年のことを徒然に・・・

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

その1:年の瀬

クリスマスも終わり、いよいよ今年も残りわずかとなってきた。

とは言っても、この年は年の瀬って感じがしない。

12月に入って結構暖かい日が続き、あんまり冬って感じがしなかったのも一因だろう。

この時期ならば、水溜りが凍るような寒い日があっても良いのだが、これも温暖化のせいなのだろうか。

 

その2:今年って

どっかのお寺の住職が毎年、その年を象徴する漢字一文字を書く話がよくニュースで流れる。

今年は“災”なんだそうだ。

たしかに台風も多かったし、地震もあった。

台風、地震被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げる次第ではあるが、実のところ、自分自身にとっても今年は“災”の年であった。

しかも、その出来事がTVで取り上げられるとは自分の人生の中でめったにあるもんじゃないと思う。

TVを観ながら、そのいきさつや状況の経過を見てたら、なんだか複雑な気分になった。

 

その3:仕事の話

今年の仕事は、久々に厳しい年だった。

キャパシティオーバーなのは分かっているが、従わざるを得ない状況はなんとかならないものか。

もう一つ久々に、働かない人間集団に出くわした。

言っちゃぁ悪いが、無能集団である。

よく今まで生きてこれたなぁと、思った。

しかし、よくよく考えてみれば俺が仕事のやりすぎなんでは、と、ふと思った。

どちらが良いか悪いかなんて判断できるわけも無いが、少なくとも、そんなんでも生きていけるんだなぁ、と、妙に感心した。

 

そんな訳でなんだか色々なことがあった年だったけど、来年は何事も無く平穏無事に過ごせますように・・・。


平成16年12月21日(火)

師走の心は母心(それは“指圧”だって・・・) その2

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

ちなみにタイトルには意味が無い。

 

一応、年も押し迫って来たってことであるが、この陽気で年末って感じがしない。

今年は異常気象で・・・、だなんてよくニュースとかで言っているけど、そうそう毎年平穏な年ばかりじゃないことをもっと認識してもらいたい。

一寸先は闇・・・、先人の言葉にはいつも含蓄がありたまにそういった言葉が思い出されることがある。

そんな年末の今日という日に、私は少々下痢気味である。

っていうのも、会社で成人病検診があり胃のレントゲンを撮った。

このときバリウムを飲む訳だが、こいつを下すために下剤を飲んだ訳だ。

これがまた効きが悪い。

いつも便秘気味の私が初めてバリウムを飲んだとき、全く下剤が効かず2,3日してから排便したとき石膏のような便が出てきた。

しかも、その表面に血がついていた。

その超硬い便のおかげで、腸壁なのか肛門なのかは分からないがどこかに傷を負ったらしい。

これはこれで、プチ医療事故なんじゃないか?と、そのときふと思った。

そんな経験を踏まえて、バリウムを飲んだら意地でもその日に出してやろうとするようになった。

努力の甲斐(?)あってか、ここ数年は1,2日で全て排出することができるようになった。

普通、消化器官は不随意器官であり意思でコントロールできないと聞いていたが、結構そういう意思があれば何とかなるもんだと、変に感心してしまった。

にしても、成人病検診って結構準備が大変である。

まず、便潜血検査用に便を検査日の1日前と当日に採便するわけだが、前述のように私は便秘気味なのでこれにはいつも苦労する。

昨日も、無理やり排便し、何とか排便することが出来た。

尻を拭こうと紙を肛門に当てたら脱肛するんじゃないかと思うくらい肛門が盛り上がっていたんでビックリして思わず肛門を押さえてしまった(ちなみに私は脱肛したことは無い)。

健康診断のために脱肛して病院に運ばれたら、それこそ本末転倒である。

翌日、やはり便意をもよおさなかったのと、また無理に排便してホントに脱肛したらイヤなので採便はやめた。

で,今下痢気味である。

これって、体に悪いんじゃないかと思う。

たしかに便秘は体に良くないとは思う。

でも全く便が出ないわけではない。

これはそういう生活のリズムなのであり、ごく自然なことだと私には思える。

こんなの話せばきりが無い。

例えば、私は朝食をとらないのであるがこれを医者に言わせれば食べなさいという。

しかし、林業に従事していた労働者は昔、一日五食であったという話を聞いたことがある。

これを医者が聞いたら食べ過ぎだというのだろうか。

今でこそ機械化が進み、比較的林業の作業は楽になったであろうが、昔はすべて人がその作業を担っていた。

集材機やトラックの代わりを人間がやっていたのだから、使用するエネルギーは相当のものであると推測される。

ではそのエネルギーを何処から吸収するのか?当然食物からであろう。

そんな感じで私のケースを考えるてみる。

私の仕事は座り仕事が中心である。

となると、肉体的なエネルギーを使う機会が少ないので食物から摂取するエネルギーは主に脳の機能を活性化させる、またはその働きを維持するものが必要となる。

場合によっては、一日のエネルギー摂取量が三食であるとオーバーしてしまうかもしれない。

それに食後すぐ興奮するようなこと(いやらしい意味ではない)をすると副交感神経の働きが低下することにより消化器官の働きが低下し、消化に良くないのは医学的にも証明されていることは医者であれば知っている事柄のはずである。

摂取した食物が消化されないということは、栄養として摂取される量が少なく時間もかかるということで効率が悪いし、なんと言ってもそんな遅効性のものでは脳の疲労を回復させるよりも脳が疲弊するほうが勝ってしまって意味が無い。

そんなんだったら交感神経を休めるため、出来るだけ安静にしていた方が良い(つまり出来るだけ寝たい)。

脳へのエネルギー供給をしない代償に(朝食を抜く)、交感神経の休息させた(出来るだけ寝る)方が私的には効率が良いと思っている。

このように医者は一般論で話をするので、気をつけなければならない。

っていうか、医者ももっと個人差というものに着目して、患者に話をするべきであると思う。


平成16年12月12日(日)

報道における見方の考察

さっきテレビのニュースを観ていましたら、こんな事件報道がありました。

 

 会社員(36)が刺殺された事件で、警察は牛丼店店長(26)を殺人容疑で逮捕した。

 被害者は事件前日から当日にかけ、容疑者の牛丼店に十数回電話をかけ、謝罪を求めていたという。

 調べに対し、容疑者は「販売した弁当が横になっていたとしつこくクレームをつけられ、業務上支障がでるのではと思い、犯行を決意した」と供述しているという。

 

とまぁ、こんな感じの話なんですがが、なんせ10分ぐらいのニュース番組なんで事件の背景なんて分かりっこありません。

しかし、このニュースを見ながら私は、“世の中、変に粘着気質の奴もいるんで、変な奴に関わった真面目な人間が思い余ってやっちゃったのかなぁ”なんて勝手に事件背景を想像していました。

しかも電話の場合、相手の表情や身振り手振りなんかの重要な情報が伝わらないんでお互いに折り合いがつけずらい場合があるんですよね。

そんなことで、最近は電話、FAX、メールなんかで情報伝達方法が便利になった反面、そういったふれあいのコミュニケーションが無くなってしまったので意思が伝わりづらくなって、こんな事件が起こったんでしょう、みたいなことを書こうかと思って、この事件のことをインターネットで調べていたら、下記のような感じで書いてありました。

 

 会社員(36)が刺殺された事件で、警察は牛丼店店長(26)を殺人容疑で逮捕した。

 調べによると、容疑者は被害者の自宅マンションを訪れ、応対に出た被害者の背中や胸を、ナイフで十数か所刺して殺害した疑い。

 調べに対し、容疑者は「販売した弁当が横になっていたとしつこくクレームをつけられ、頭にきて殺した」などと供述しているという。

 被害者は事件前日から当日にかけ、容疑者の牛丼店に十数回電話をかけ、電話した後も数回、容疑者を呼び出して謝罪を求めていたという。

 容疑者が事件後、知人の男性に「犯行当日に会っていたことにしてくれ」などとアリバイ工作をしていたことが判明、追及したところ犯行を認めた。

 

とまぁ、こっちは感じです。

赤字のところはニュース番組とは違うところまたは情報として追加された部分で、この場合だとまた印象が変わります。

まず、“被害者の背中や胸をナイフで十数か所刺して殺害”で印象が変わります。

急所を狙ってきているし、背中を刺すってことは逃げる被害者を背後から襲うと言う、明らかに仕留めようとしていると考えられるので、明らかに“殺し”に来ています。

次に“「販売した−(中略)−頭にきて殺した」などと”というところ。

ニュース番組では“業務に支障が出る”という話でしたがインターネットでは“頭に来て”となっております。

理由として“業務上支障が出る”ってならば責任上仕方なくって感じを受けますが、“頭に来て”となると単なる自己中心的な感じを受けます。

あとインターネットのほうでは“などと”って書いてあるんですが、これはこの供述以外にもほかの供述をしているってことだと思うんですよね。

ここらへんが報道の言葉としていつもひっかかるんです。

容疑者は色々な供述をしているかと思うんですよね。

でも報道も商売でやっている以上、時間や字数に制限があるんで、その内容の代表的なものを選んで報道するわけです。

では、それを選ぶのは誰か、それは報道の側だと思うわけです。

そうすると、実際に供述したことであればどれでも選ぶことが可能で、結局、取材者などが受けた印象の中からその言葉を選ぶことになるわけです。

ニュース番組では真面目な感じ、インターネットでは悪印象を与えるような言葉を選んだった訳です。

次に“電話した後も数回、容疑者を呼び出して謝罪を求めていたという。”っていう話。

牛丼弁当の不具合ぐらいで“相手を呼び出して謝罪を求める”ってのはよっぽどのことのような気がします。

この被害者、弁当を大量発注でもしたんでしょうか。

そしてその全てが食べられないくらいに“横になって”いたんでしょうか。

また“謝罪を求めていたと言う”って話、この場合だと容疑者は謝っていないとも受け取れると思うんですよね。

もし謝っていたんであれば“謝罪をさせる”になるはずです。

あと“容疑者が事件後、知人の男性に「犯行当日に会っていたことにしてくれ」などとアリバイ工作をしていたことが判明、追及したところ犯行を認めた。”って話、明らかに逃げの体制に入っています。

この場合であると、容疑者の情状酌量の余地がないような感じになってしまいます。

そんなことで、私はインターネットの方の報道の文章を見て、“容疑者は無責任な、間違えて店長になったような奴で、お客のクレームに逆ギレして短絡的に殺人を犯した”っていう事件背景を想像しました。

ニュース番組を観たとき、容疑者は真面目な人間、インターネットの場合は不真面目な人間の印象を受けるように、その文の内容で同一の話で、こうも印象が変わってしまうものなんですよね。

基本的に報道は、事件の内容を伝えるべきであって事件の背景を想像してしまうような供述内容なんかを伝えなくても、別にかまわないような気がします。

ただ、それだけでは情報を提供する相手の興味を引くことが出来ない場合もあるかとは思うんで、事件の背景を想像できるような供述内容なんかを付加するんでしょうね。

このとき気をつけなければならないのは、つい無意識にその事件背景を想像し、その事件の印象が勝手に固定されてしまうことでしょう。

やはり、興味を持った報道内容に関しては、各報道機関が発表しているものを情報として集め、それらを相対的に比較、検討した結果で事件背景を想像すべきでしょう。


平成16年12月5日(日)

キティちゃんって

フジテレビの“トリビアの泉”でサンリオ社のハローキティ、いわゆる“キティちゃん”のペットはペルシャ猫というのが紹介されました。

キティちゃんは猫という設定のはずであり、ペットが猫ってのはなんかおかしいと思うんですが、サンリオ社の広報の方の話によると、キティちゃんは“擬人化”されているのでペットが猫であってもおかしくは無いと主張してました。

では、人間がいて、ほかの人間を“擬人化”ならぬ“擬動物化”すれば、その人間がペットであってもおかしくないという理屈は通用するのでしょうか。

平成16年12月4日(土)

師走の心は母心(それは“指圧”だって・・・)

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

いやぁ、やっと書けた・・・。

一ヶ月ぶりに書くことができた。

って言うのも、殺人的な仕事スケジュールで書いてる暇がなかった、っていうか書く気力が無かった。

 

ちなみに、タイトルには意味が無い。

 

では本題、って言ってもタイトルに意味が無いっていうことなんで本題も何も無いわなぁ・・・。

 

まず仕事話。

結局、超激ヤバだった状況も、各関係者の協力を得て、なんとか挽回することができた。

いやぁ、感謝、感謝。

久々に人に感謝したぜい。

とは言っても、依然、仕事の状況は予断を許さぬ状況である。

ここからは私の出番である。

ここで気を抜いてしまったら、今までの努力が水の泡である。

自称“段取王”の称号に恥じぬような段取りをしてバッチリ決めてやらねばなるまい。

あと、もう少しだ。頑張ろう。

 

次に結婚話

会社の後輩の結婚式があり、その二次会に呼ばれている。

結婚式の二次会では、いつもどんな格好をして行こうかと迷う。

それは何故かと言うと、その時々でフォーマルだったり、カジュアルな格好だったりする。

なんか基準があるのだろうか?

に、しても久々の慶事である。

何かと忙しい年の瀬ではあるが、仕事ばっかじゃなくて、こういうことで忙しさが増すのも、たまには良いかと思う。


平成16年11月7日(日)

私のお仕事

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

最近、仕事が非常にピンチである。

と、いうのも(結局私の判断ミスであるところもあるのだが)判断を誤って、2週間ほど時間をロスしてしまったのだ。

激ヤバである。

これを挽回するのは容易なことではない。

約2週間後に来る納期のものについては、普通ゆうに1ヶ月はかかるものなので、間に合わないことは分かりきっている話である。

これをどう挽回するか・・・。

うーん、非常に難しい話である。

しかも、先日出荷したものについてもクレームがつかないとも限らないし、現状非常に予断を許さない状況である。

私ゃ一体どーしたら良いんだろうかねぇ〜、と思ってもどうにもならない現実がそこにある。

まぁ、あては無いが明日からベストを尽くして頑張るしかない。

そして、“かならず出来るんだっ!!”、と、いつも思うように心がけるようしよう。

よぉ〜し、頑張るぞぉ〜っ!!

最後に勝つのは必ず私なのだから・・・。

平成16年10月29日(金)

報道の有り様

まず、中越地震の被災者の皆様へ、お亡くなりの方へはお悔やみを、負傷された方、被災者の方へは謹んで心よりお見舞い申し上げます。

未だに続く余震に日々、不安な毎日を送り心労もひとしおかと存じますが、復興に向け、明るい明日が皆様に訪れます様、心よりお祈り申し上げます。

 

さて、中越地震の惨状は遠く離れた私の地元にも伝わってきております。

昨今の情報伝達のスピードは、ほんの昔から比べると、目覚ましいものがあります。

テレビ、ラジオ、インターネット、新聞など、報道の媒体はいくつもありますが、果たしてこれらの正確性はどのくらいなんでしょうか。

と、いうのも昨今の地震報道を見ていたら、なぜか、ふと、思い出したことがありまして、そのことを書きたいと思います。

 

地震と無関係なことで申し訳ないのですが、サッカーのJリーグが始まって間もない頃の話です。

現:日本代表監督のジーコ氏は鹿島アントラーズで1年ぐらい現役選手として活躍していたことをご存知の方も多いでしょう。

ブラジルの“黄金のカルテット”と呼ばれていたうちの一人、ジーコ氏、当時40代でとてもサッカー選手ではやっていけないような年齢でしたが、まだ日本サッカーが今のようなレベルとは程遠い頃でしたので、ジーコ氏の個人技は、どの選手よりもぬきんでていました。

ジーコ氏のすばらしい技とコーチングに、住友金属時代から考えれば鹿島アントラーズもJリーグでは強豪の部類となってきたのです。

そんな時あるTV番組で一人のサポータのドキュメント(らしきもの)を放送していました(あえて(らしきもの)としたのは、その番組中に、これがフィクションなのかノンフィクションなのかの理があったかどうか私の記憶に無いからです)。

その人は、おばさん(茨城の人で、鹿島の近くか、鹿島に住んでいたんだと思います)で足が悪く、外を歩こうにも足が痛くて歩けず、沈んだ毎日を送っていたんだとか。

そんな時、Jリーグが始まったそうです。

当時、Jリーグはワールドカップなんかも控えていたんで結構な盛り上がりを見せて始まったのですが、このとき結構、サッカーファンが増えたわけです。

そのおばさんの地元チームは鹿島アントラーズになるわけで、おばさんもサッカーとか見る機会があったそうなんです。

で、ジーコ氏のプレイを見て、おばさん、感動してしまったらしく、それからといもの試合があるときは足しげく鹿島スタジアムへ応援に行くようになったそうです。

するとどうでしょう、悪かったおばさんの足は快方に向かい、あまり不自由なく歩けるようになったとのことなんですね。

そのときおばさんはインタビューで“ジーコさんは私の足を直してくれた神様だ”と、言ってました。

確かにジーコ氏は“神様”とあだ名されてはいましたが、それは“サッカーの神様”なのでありホントの“神様”じゃないんですが、そのことをこのおばさんが理解していたかどうかは分かりません。

で、ここから問題のシーンの話をします。

鹿島アントラーズのホーム戦、バスから降りてくるジーコ氏。

そのジーコ氏に多くのサポーターが声援を送っています。

その中に、あのおばさんが“ジーコさん、ありがとう、私の足を直してくれて〜”と涙を流しながら手を振り叫んでいました。

ジーコ氏はブラジル人であり、その日本語を理解したかは分かりませんが、少なくともそのときは“どーも”的な表情で不特定多数に手を振ってたように見えました。

と、まぁ、放送されていた内容はここまでとします。

これが真実なら、“おばさん”の生きがいが出来て、それがリハビリの効果を発揮したっていう感動話で、事実、私もそのときは“良かったね、おばさん”って思ってました。

しばらくして、あるときサッカー番組を観ていたときのこと。

各チームのサポータの状況を紹介するコーナーがありました。

このとき、MC2人が面白おかしくそれぞれのシーンに話をつけるような感じで番組は進行していきました。

そのとき、あのおばさんの問題のシーンが出たんですね。

そのとき、MCの一人が、

「あ〜ぁ、いるんですよねぇ、あーゆう勘違いする人が。ジーコはねぇ、そういう意味の神様じゃないんですよぉ、ほらジーコだって困ってるでしょ?」

と、話していました。

確かにジーコ氏は、おばさんの迫力に“困ったなぁ”みたいに見えないことも無かったような・・・。

と、まぁ、そんな訳で、この二つの番組では同じシーンを流したのにも関わらず、全く違う印象が与えている訳です。

私の場合、先にドキュメント番組を見てからサッカー番組を見たわけですから、笑うに笑えない状態っていうか、サッカー番組のMCに“こいつ、ふざけてんなぁ”って印象を受けました。

でも、もしこれが反対だったら。

多分、その場の雰囲気で笑っていたでしょう、その背景も知らずに。

しかし、ここで前出のドキュメント番組が、それらしい、つまりドキュメント風番組であったと仮定するとどうなるか。

なお、これからの文章は、あくまでもメディアが“やらせ”番組を制作していた場合の仮定であり、おばさんの売名行為だとか、そういった類の仮定ではありません。

ここで私がおばさんの売名行為を仮定して、それを検証したとしてもおばさんの社会的影響力は微々たるものだと思われるし(おばさんが凄い人なら別ですが)おばさんを誹謗中傷しても仕方が無いからです。

なお、今から書く仮定が真実と反していた場合“おばさん”に対して私は非常に失礼なことを言うことになってしまうことをお詫びしておきます。

また、メディアに関わっている人がこの仮定を非難するのであれば、“やらせ”などのあまたの不祥事における事実について、謝罪するだけでなく二度と事件を起こさないと誓約するか、メディア業を廃業して未来永劫関わらない方が良いと私は思います。

まさか“やらせ”事件の報道まで“やらせ”ってことは無いでしょうからね。

他人が起こした不祥事が自分には関わりが無くても、同業種であればそれだけでそう思われることを肝に銘じてください.

では今から仮定を書きます。

まず、製作された時期がサッカー番組の方が先であったと仮定します。

そしてサッカー番組では番組を面白くすべく、サポーターの中に劇団員の“おばさん”を紛れ込ませ、そういうシチュエーションを作り出したと仮定します。

ついでにリアリティを出すために、地元TV局の取材を狙って報道としての映像にして、そのソースを地元TV局から手に入れて番組に使ったとします。

一方、地元TV局ではその映像を見て“おばさん”のドキュメントを作ろうとしますが、そのおばさんが劇団員であることが分かって製作プロデューサは愕然とします。

しかし、製作を始めてしまった手前、止むに止まれず仕方なく“やらせ”ドキュメントを作ってしまい、そしてドキュメント(らしい)番組が放送された・・・。

と、まぁ、こういったシナリオが考えられなくも無いと思うんですよね。

そうすると、「サッカー番組のMCに“こいつ、ふざけてんなぁ”」と思った私の気持ちは何なのか?実に馬鹿らしい結果がそこには待っているわけです。

私の仮定の話はホントに私の考えた架空の話で、根拠も何も無いのですが、今までの報道番組の中で“やらせ”報道が無かった訳ではないのですから、こんなことを思われても仕方ないですよね。

最近の報道の有り様について、疑問なことはまだあります。

田中真紀子氏が外務大臣を更迭されたときの報道で、選挙の応援演説で問題となったときの話です。

報道番組の冒頭ってのは、大体ヘッドライン(見出し)映像を出してインパクトを与えてから番組に入るわけですが、田中氏の問題シーンはこんな感じだったと思います。

選挙カーの上で田中氏と候補者がいて、田中氏がマイクを持っていました。

そして、田中氏が、

「あなた、(名前を)なんて言いましたっけ?」

で、候補者が“またまたぁ”みたいな感じで田中氏の体に触ろうとすると、田中氏はその手を払って、

「あらま、触んないでくださいよ、私はあなたのことを知らないんですから。」

ここで映像が終わります。

これだけ見ると、いくら無頼な田中氏でも候補者に失礼な感じですよね。

大体のTV局のヘッドラインがこんな感じでした。

私はこの映像の編集に疑問を感じました。

氏のことですから、冗談を交えながら話してたんでしょう。

たまたま、ほぼ、その映像が含まれたほぼ完全な映像を見ることができ、それを見たところ、やはり話の流れの中から、そういう話になっていったように見えます。

氏はその話の前後、ちゃんとまじめな話をしていたんですけどね。

ただ、ここで笑いを取っておこうと面白いことを言ったらば、それだけ取り上げられたって感じです。

これってなんか悪意を感じるんですよねぇ、なんか各TV局に圧力でもかかってんでしょうか。

 

と、まぁ、いくつかの例を挙げてきましたが、“やらせ”報道、ドキュメントの類の話はまだ沢山あります。

TVのあるドキュメントでは外国の山中で探検隊ががけ崩れにあったってシーン、実はがけの上から石をわざと落としたとか、ほかの報道番組のコーナーでは幻の殻まで食べられる海老、実は脱皮したばかり海老は殻がやわらかくて珍しくともなんともないとか・・・、新聞では珊瑚にかかれた落書き、実は取材に行った人が自ら書いて、さも誰かが書いたように報道したとか・・・、それ以外にも沢山あります。

メディアの方、特に報道の方は慎重にことを起こさないと流した報道自身の信憑性を疑われるし、社会不安を起こす一因となってしまうので気をつけて情報を提供していただきたいものです。

TVの報道番組もTVである以上、視聴率に影響されてしまうのは仕方が無い部分だなんて思って、面白いところだけ映像に使ったりしている場合があるような感じがあります。

田中氏の話なんかで、私は田中氏に不利な報道をしているように感じて非常に不公平であると感じました。

最後に、映画で“トゥルーマン ショー”ってジム・キャリー氏主演の映画がありました。

これは巨大セットの中で一人の人間だけが、そこを現実の世界だと思い、主人公の親も赤の他人、他の人も役者で、その主人公が育って行く姿をTVで中継するという話です。

例えば主人公が街で絡まれてケンカするのも、恋愛して失恋するのも、すべて台本に書いてあるとか、そんな感じで主人公だけが、それが現実だと思って生きて行くのです。

メディアの情報がいつも事実だと思っていると、たまにそうでない場合もあるかもしれません。

やはり情報は、多角的に仕入れて総合的に判断すべきでしょう。

平成16年10月28日(木)

英二ひとたび

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

最近、“くりぃむナントカ”って番組で“芸能人・・・王選手権”ってのをやっていた(・・・の部分は何て書いてあったか忘れた)。

この回は“長渕剛ファン王”を決めるという企画だった。

要するに芸能人の中で真の長渕剛ファンは誰だ、ということを決めるとのこと。

メンバーはお笑いの“くりぃむしちゅー”の上田氏、“ペナルティ”のワッキー氏、そしてラクビー元全日本代表の大八木氏だった。

まぁ、メンバーの話は置いといて、この企画、カラオケボックスで長渕さんの歌をどれだけ長く聴いていられるか、一番長く聴いていられた人がチャンピオンっていうルールで行われた。

ではその歌をどのように聴くのか?

そこで登場したのがモノマネタレント“英二”氏だった。

この英二氏、登場から風貌が長渕さんに似ているところから“おっ、結構似てるじゃん。期待できるかなぁ”なんて思ってた。

で、やおら椅子に座ると持っていたギターを前に掲げて、

「へへっ、今日はギター一本でやりますから。」

と、言った。

“へへっ”っていう笑い方や“今日はギター一本でやりますから”ってのが“うわぁ、この人良く知ってんなぁ、絶対長渕ファンだよ”なんて、今考えてみたらごく当たり前のことを思った。

で、一曲目の演奏を始めた英二氏。

全体的な音色が良く似ていた。

ギターは“タカミネ”だからそうだけど、ブルースハープはメーカーが見えなかったけど音色から推測すると多分“トンボ”だろうと思った。

で、歌い始めた英二氏。

このとき、“うわぁ、似てるよ〜、すげぇ!!”、ホント良く似ている、声質なんかもうソックリ。

多分遠巻きに観てれば本人か英二氏かわからないくらい良く似ている。

“この人のモノマネショー観てぇ〜、金出しても観てぇ〜”ってホント思った。

で、英二氏は結局6時間かけて100曲以上歌ったようだ。

比較することは出来ないかもしれないが、曲数だけで言えば本人の桜島コンサートでさえ42曲なんで、これは非常に凄いことだ。

ちなみにこの企画では“くりぃむしちゅー”の有田氏が、挑戦者たちをいかに脱落させようかという画策を企てる。

別室にいる有田氏は挑戦者に聞こえぬ様、英二氏に指示を出すことができるようになっている。

そこで有田氏はワッキー氏が好きな曲だという“Super Star”を6回連続演奏するよう英二氏に指示を出し、演奏したところワッキー氏は堪らず“休憩”ボタンを押した。

ここで補足だが挑戦者にはアドバンテージとして休憩が一回だけ与えられている。

手元の“休憩”ボタンを押せば“休憩”の、“ギブアップ”のボタンを押せば“ギブアップ”のパトライトを点灯するものが用意されていた。

ここで本題に戻る。

そりゃそうだよなぁ、同じ曲6回も聴かされればイヤにもなるって。

しかも、歌って欲しい曲聞いといて、当然“Super Star”以外をリクエストするわけだけど、そのリクエストした曲をやらずに“Super Star”やったり、他の曲の途中からSuper Star“やったりして、そりゃイヤになるって。

で、ワッキー氏が休憩から戻ると有田氏は英二氏を休憩と称して一旦退室させた。

ここで代わりに女性、子供、外国(ガーナ)人を入れ替わり立ち替わりにカラオケで歌わせたりして挑戦者の意気を消沈させる作戦に出た。

その作戦はかなり成功して、挑戦者たちはかなり気をそがれたようだ。

で、再び英二氏が戻って延々を演奏を続ける。

結局、大八木氏が優勝ということで、この企画は終了したわけだが、ここでいくつか思ったことがあるので、それを書く。

まず、英二氏のことであるが、これはもう何度も書いているようにホントにそっくりである。

この英二氏がギター一本で演奏するわけであるから、ファンとしては非常にテンションがあがって当然である。

なぜならば、英二氏のソックリさは他のソックリさんの比ではなく、まるで本人が演奏しているかのようである。

しかも “ギター一本”ってのがミソである。

近年のコンサートで「ギター一本」でやるって言った割には、いつものバンドメンバーが出てきたりする。

一応、太鼓とか電気楽器が出てこないだけ、アコースティックライヴだと思えば我慢もできるが、しまいにはカラオケなんか入れたりして結局「ギター一本」じゃ無くなったりするのである。

長渕ファンにとって「ギター一本」はほとんど夢であり、一生に一度は観てみたい大イベントである。

それをモノマネであっても延々とギター一本で演奏する英二氏の姿にテンションが上がらないわけはない。

次に、英二氏が一旦退室したあと、次々と出てきたモノマネ(?)さんたちである。

当然、英二氏を観たあとでもあり、しかも彼らはモノマネをするわけでもなく、ただカラオケで歌うだけなんでテンションも下がって当然である。

事実、私も桜島で“しあわせになろうよ‘04”のとき、参加アーティストたちが歌っている姿を見、歌を聴いていたら非常にテンションが下がった。

 

と、言うわけで総括を書く。

結局、長渕ファンは“長渕剛の歌”が好きなのでは無く、“長渕剛の歌を歌う長渕剛”が好きな人が多いのではなかろうか。

何故そう思うかと言うと、英二氏ならばテンションが上がるのに他のモノマネさんたちのように似ている訳でもなんでもない人が長渕さんの歌を歌ったところでテンションが上がらないところである。

ゆえにいくら長渕さんが好きであっても自分で歌ったところで自己満足の状態しか得られないし、他の聴いている人も流れる曲を聴きながら長渕さんの歌声とかを思い出しているのではないだろうか。

やはり長渕さんの曲は長渕さん本人が歌うのを聴いて、ライヴなんかでは長渕さんと一緒になって歌って一体感を感じることが最良であると、今回改めて思った。

最後に、上田氏が“やっぱ長渕剛ファン王は英二さんだよ〜”って言ってたのが印象に残った。

上田氏の気の利いたTV用コメントなんだろうけど、私もそう思った。

それはタレントの関根勤氏が言った言葉“モノマネする人が好きだからモノマネをする”、“愛があるから、その人のモノマネができる”って言っていたことを思い出したからだ。

平成16年10月24日(日)

小柳ゆき氏についての考察

このほど、歌手、小柳ゆき氏のアルバム “MY ALL<YUKI KOYANAGI SINGLES 1999−2003>”を購入しました。

今回は、そのアルバムと小柳氏のことについて書きたいと思います。

 

この“MY ALL”というアルバムは、いわゆるベストアルバムで、彼女が活動を始めた1999年から2003年までのシングル曲がCDに15曲収録されています。

さらに、上記収録曲のビデオクリップ(ビデオクリップを製作しなかった曲があるとのことで)14曲収録されたDVDとの2枚組で、なんとっ、¥3,300です。

と、いっても、この値段が高いか安いか、私はこの手のものを買った事が無いんでなんともいえないのですが・・・。

と、まぁ、このような内容の商品なんですが、私自身、最初はDVDはどっちかって言うと要らなかったんで、CDだけにして安く販売してもらったほうが良かったかなぁ、って、思ってました。

でも結局、買ってしまえば要らないと言いながらそれなりに観るわけで、結局、全曲観てしまいました(笑)。

それに、それを観たおかげで小柳ゆきという人の変遷を見ることができたわけであり、この文章を書くきっかけともなったんですけどね。

 

では、このDVDを観て思ったことを書きます。

氏は1999年に“あなたのキスを数えましょう〜You are mine〜”って曲でデビューしたんだと思います。

私はTVの深夜番組のエンディングで、この曲のビデオクリップが使われているのを見て彼女を知ったんですが、曲を聴いて、その歌唱力に可能性を感じました。

まぁ、これ系の歌手といえばMISYA氏やDream Comes Ture(以下ドリカム)の吉田美和氏がいる訳ですが、彼女らの場合の歌声はどっちかって言うと高音域の感じが、私の好きな感じでは無いんで、歌は上手いと思いますが私自身あんまり興味は無いです。

小柳氏の場合は、私の好きな感じの高音域の声なんで“これはっ!”って思いました。

あと、ビジュアルで言うと、私は“かっこいいお姉さん”ってのが好きなんで、そういう意味で彼女は両方を兼ね備えていたわけです。

 

と、まぁ、私の個人的な趣味はここまでにして彼女の変遷について書きます。

デビューから何曲目までは、それなりに注目されていたこともありビデオクリップで見ていると化粧なんかも派手で、カッコイイお姉さんそのものです。

歌の方もバラードの“あなたのキスを数えましょう〜You are mine〜”、アップテンポの“愛情”など“be alive”ぐらいまではソウル系というか、そういう感じです。

次に“DEEP DEEP”から“my all”ぐらいまでがなんとも中途半端な曲が多くて、彼女らしさをあまり感じることが、私には出来ません。

その後、“remain−心の鍵−”って曲はヒットしたんで、私もそれなりに聞いたことはあります。

この曲って、なんかのタイアップだったと思うんですよね。

この曲については、結局バラードって感じで彼女の良さが出ているのではないでしょうか。

次に“HIT ON”って曲があるんですが、この曲調って安室奈美恵が歌っても良い、って言うか安室奈美恵の方が良いような気が・・・。

で、“Endress”って曲があるんですが、これもなんかのタイアップだったような気が・・・、曲はまぁ良いですね。

そして、“ON THE RADIO(日本語ヴァージョン)”。

これはかのドナ・サマーが歌ってた、あの“ON THE RADIO”なんですねぇ。

日本人でこの曲をカヴァーして売ることができるのって彼女ぐらいしか居ないんじゃないでしょうか。

と、まぁ、ここまで色々書いて着ましたが、ビジュアル的に彼女はやはりソウル系の人なんで、ファッションなんかも、やっぱりそれ系になってしまいますよね。

さっき思ったんですが、ドナ・サマーって感じですかね。

余談ですが、昔、八神純子って歌手の人がいて、今でもたまにTVで見かけたりすることがあるんですが、彼女がアメリカに渡ってから出したアルバムジャケットが思いっきり“ドナ・サマー”してました。

で、最後に“恋のフーガ”が入ってたんですが、このビデオクリップが今までのものとは路線がまるで違うものでした。

ピンクの衣装に明るいピンク系のメイク。

これまでの暗ぼったい衣装や黒人系シンガーを思わせるような感じから一転してます。

まぁ、映像合成で2人の彼女が歌っているぐらいで、どう考えても“ザ・ピーナッツ”をイメージしてるんでしょう。

私には、この映像が異質のものに見えました。

悪いとは言いませんが、良いとも言いません。

ただ製作サイドの意図がはっきり見えてこないのです。

これには色々な理由があるのでしょうが、ひとつ思い当たるフシがあります。

彼女のCD売上が芳しくなく、レコード会社も契約を打ち切るようなことをインターネットで見たことがあります。

多分、“恋のフーガ”で巻き返しを図りたかったんでしょうが売れたという印象を私は持っていません。

と、ここまでがDVDの内容です。

ちなみに“Lovin’ you”って曲がCDの方には収録されています。

この曲はCMのタイアップで聞いたことがある方もおられるかと思いますが、これもまぁ好きな方の曲ですね。これって原曲がなんかあるって聞いたことがあるんですが・・・。

 

と、まぁ、今回購入した“MY ALL”というCD+DVDのことを書いてきたわけですが、これ以降の話を少し書きます。

“恋のフーガ”以降、“Love Knot”という曲を彼女は出しているかと思いますが、これもタイアップがあったんで、そこそこ売れたんではないでしょうか。

“Love Knot”では、結局もとの路線へ戻ってソウル系の感じになってしまったようです。

 

最後に、このDVDを見ていて思ったんですが、せっかくの歌唱力を製作サイドが活かしきれていないような印象を受けました。

彼女の場合、別にビデオクリップが無くても良い曲が提供されれば、そこそこ売れるような気がしますけどね。

で、“Love Knot”以降、彼女の曲を聴いていないような気がします。

せっかくの歌唱力なんですから、これからも良い歌を聴かせて欲しいものです。

平成16年10月18日(月)

徒然に・・・(3)

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

さっき夜空を見上げた・・・。

 

東の空に見えたのはオリオン座だろうと思った。

もうすぐ冬なんだなぁ、と思った。

明け方には蠍座が見えるんだろうなぁ、と思った。

季節が過ぎて行くのだなぁ、と思った。

 

そういえば・・・。

 

昨日、実家で夜空を見た。

山の中でも街明かりが多いなぁ、と思いながら見た。

でもちゃんと天の川は見えるなぁ、と思いながら見た。

あぁ、帰ってきたんだなぁ、って思いながら見た。

 

すると・・・。

 

幼い頃、親の実家で見た星空を思い出した。

夏の新月の夜、母親と一緒に見た星空を思い出した。

今にも降って来そうな満天の星空だったのを思い出した。

あまりにも星が多くてちょっと怖かったのを思い出した。

 

そのことで・・・。

 

さっきまでいた実家を思った。

次第に朽ちて行く実家を思った。

次第に年老いて行く親を思った。

寂寥感を感じながら思った。

 

さっき夜空を見上げた・・・。

平成16年10月10日(日)

鋼の錬金術師

 

先日、アニメ「鋼の錬金術師」が最終回となりました。

エエ歳コイてアニメもあったもんじゃ無いかと思いますが、私の場合、話の内容の良し悪しのみで判断するので、その表現方法が漫画であろうがアニメであろうが、小説であろうが舞台であろうが“良いものは良い”ってのが私のスタンスですので、あえてこの話を書きたいと思います。

まず、私はこの話を途中から見始めました。

多分この時間帯、この前の番組が“ガンダムSeed”だったんで、あまり気にかけて無かった時間帯でしたが、たまたま休みの日にテレビを点けたらやってたんで暇ついでに見たんだと思います。

ここでお詫びです。

このお話はテレビシリーズで1年間放映されたものです。

従って52話はあると推測され、この物語のあらすじなどを書くことは、ある程度可能なのでしょうが世界観を掌握するのは不可能かと思われます。

ですので、もし、この文章を読んで興味を持たれた方は、DVDとかビデオとかが発売されているかも知れませんし、近日劇場版も映画で公開されるらしいので、そちらの方をご覧下さい。

 

それでは、本題に入ります。

ここからは観たことがある方、その世界観をご存知の方(漫画の方は読んだことが無いので話が違っているかもしれませんが、基本的な設定は同じなんじゃないかと思って書いています)対象に書きます。

ちなみに私が観だしたのは動物と人体と練成しキメラを作った人がいて、それをエドが見て叫んでいたシーンがあった話からだと思います。

この物語で、重要なキーワードがあります。

それは“等価交換の原則”です(パチンコ屋の話じゃありません)。

この物語が始まる、オープニングテーマの前に、

「人は何かの犠牲無しでは何も得ることはできない。何かを得るためには同等の代価が必要になる。それが錬金術における等価交換の原則だ。」

と、言うナレーションが入ります。

これが、この物語の世界観を端的に表している言葉です。

この話の中で錬金術を使うものは、様々な反応を促進させ、様々な現象を引き起こすことが可能ですが、有から無を、無から有をということは出来ないという設定になっています。

また、錬金術は人体に使用することが禁忌となっているという設定もあります。

しかし、死者をよみがえらせようと、このタブーを犯して人体に錬金術―人体練成―を使用するも失敗する事例が発生する訳です。

この失敗作が“ホムンクルス”という生命体で、姿かたちは人間の格好をしているのですが人間を超越したさまざまな能力を持っているという設定となっております。

またホムンクルスは通常、人間の姿とは似ても似つかない姿で誕生するのですが、“賢者の石”によって人間の姿の様に維持することができます。

つまり、この世界の利害関係は“賢者の石”に集約されるわけですね。

元々“賢者の石”が作られた目的というのが、ここに登場する誰のためでもなく、他存在のためだったのですが、あまり書くとヤバいような気がするんで、詳細につきましては割愛します。

結論として錬金術が“賢者の石”によって“等価交換の原則”から開放される、つまり、見せ掛け上代価を払わなくても良いようになるということなのですが、実際のところ錬金術を使うたびに“賢者の石”が減ってゆくということなんで、結局代価を支払っていることになるわけですけどね。

また、この“賢者の石”も、あるものの多大な犠牲の上に成り立っているので、結局、等価交換の原則は成立しているわけです。

 

と、まぁ、このお話についての中核となる事柄をなるべく端的に書いたつもりですが、次になぜ私がこの話を観るようになったかを書きましょう。

まず、好きなタイプの話だったから、これが一番の理由でしょう。

これってコミックガンガンに連載だったと思いますが、いかにもアニメチックな展開が同人誌より、商業ベースに偏った感じが良いのでしょうなぁ。

背景、衣装、世界観、クリチャーデザイン、紋章などのデザインなど、良く出来ていると思います。

それに、錬金術の解釈が、どちらかと言うと魔術的な感じなのは、私が知っている限り無かったと思います。

また私自身が最近、漫画なりアニメなりを観てなかったってのも観る理由になったかと思います。

最近しっかり観ていたアニメってエヴァぐらいで、漫画なんかベルセルクだもんなぁ。

両方ともエグい話なんでねぇ、そういった意味でも鋼の錬金術師は結構エグい話になるんではないかなぁ、と、思います。私が好きなんで・・・。

 

それにしても私の観る漫画って、何か共感したりしないと、どんな流行っていたり有名なものでも観ないんで、鋼の錬金術師における私が共感というか考え方として面白いかなぁ、って思っていることを書きます。

それはなんといっても“等価交換の原則”ですな。

この場合は、 “錬金術”における、って前置きがある訳ですがね。このお話では。

でもまぁ、基本的には等価交換の原則はこの世でも通用しているんで、このお話を通して、観ている人が本当の意味での“対等”を考えるのに良い機会なんでは無いでしょうか。

ただ、「何かを得る為には、同等の代価を支払わなければならない」、ってのがこのお話の中で無理があるところなんですね。

私だったら「何かを得る為には、代価を支払わなければならない」ってしますがね。

結局、等価でなければならないって前提のもとに話を進めているんで、等価でないと理不尽だっていう論理が成立するわけです。

別に今の世でも、同一の商品なりに万人が同等の代価を支払っているわけじゃないですからね。

それに代価をある一定のものに限定してしまうと、結局等価でないと思えると思います。

そのもの以外にも得ている何かを感じることができれば、それを合計して等価交換と言えるのではないでしょうか。

平成16年10月4日(月)

緊急事態宣言!!ジュビロ磐田への警鐘

えー、我がジュビロ磐田なんですが、現在・・・最下位ですっ!!

ど、どーしたんだジュビロっ、何が一体そうさせたんだっ!!

と、盲目のサポーターのようにうろたえたいところなんですが、原因らしきことが思い当たるだけにそれもできないとは、あぁ情けない・・・。

と、言うわけで何故ジュビロが最下位なのかを私なりに考察しましたので、それを書きます。

 

えー、ジュビロのサッカーといえば、細かいパス回しからゴール前でのブ厚い波状攻撃で数多くの点をもぎ取るってのがスタイルかと思うんですが、これがですな、今季は出来ていません。

まず、細かいパス回しですが、これを大体中盤で相手にカットされてしまうってのが今季の特徴です。

細かいパス回しは相手ディフェンスラインを高い位置へ持っていって、スルーパスなんかで、その空いた裏のスペース、オフサイドラインぎりぎりへ選手を走らせて最終ラインを突破するときに使う戦術ですが、はっきり言って、今のジュビロでは相手のディフェンスラインは上がってきません。

っていうのも、ジュビロの場合、センタライン付近でパス回しを行う場合が多いわけですが、これに対して相手チームが守備にかける人数が昔と比べ明らかに減っています。

これは多分、相手チームがジュビロであろうと、中盤でボールを奪う確率が上がってきていると思っているからなんだろうと思います。

実際、今のジュビロならばあんまり人数をかけなくても中盤でボールを奪うことができます。

これは、味方がボールを持ったときに対するフォローが無いからなんです。

サッカーの戦術で良く言われる“数的優位”ってのがあります。

これは、ボールを中心にある範囲内で、お互いの選手が何人居るかってことなんですが、一般的に味方の人数が多いほうが有利といわれています。

でもまぁ、幼稚園児のサッカーのようにキーパー以外全員がボールにくっついて回れば良いって訳じゃないんですけどね。

大体、ボールを持った選手に2、3人が付いてボールを奪う、パスコースを消すってのが一般的なようです。

昔で言うと、あの“ドーハの悲劇”の時の日本代表の加茂監督が提唱した“ゾーンプレス”ってのがその“数的優位”を更に効率よく実現できるようなシステムだったんですが、あんまり機能していなかったと記憶しています。

でも今じゃ、どのチームでもその方法は行っているし、上位チームともなれば、そのスピードとポジション取りが抜群にうまくなっている傾向にあると思います。

ジュビロがまだ強かった頃、相手チームが数的優位でボールカットに行こうと思っても、ジュビロの選手は、それを上回るテンポのパス回しで相手を翻弄し、相手ディフェンスのマークがずれてスペースができたところへボールを出して、結果、フリーとなっていた、または、技能的に高い選手がゴールを量産するというプロセスが出来ていたわけです。

しかし最近ではパス回しをやろうと思う前にボールを取られてしまう機会が多いように思います。

これはジュビロの選手の技能が低下したのが、はたまた相手チームの技能が向上したのかわからんのですが、相対的に技能の差が縮まってきているという意味ではないでしょうか。

つまり相手の動きよりジュビロの選手のパス回しのテンポが遅いってことです。

これを今、打破するには“数的優位”を作り出すしかありません。

現在の試合を観ていると、ジュビロの選手はボールを持った選手に対してほったらかしになっています。

ボールを持った選手が相手ディフェンスに囲まれても、誰もボールを貰いに行くとか、そういったフォローが無いのです。

これは特に中盤で多く見受けられます。

ゆえに中盤でボールを取られる機会が多いのだと思います。

では中盤でボールを取られた場合におけるジュビロのディフェンスについて書きます。

ボールが奪われた後、ジュビロのディフェダー(以下DF)陣は、大方、高い位置にポジションを取っています。

これは昔なら、パス回しから攻撃に移った場合、攻撃中に相手がクリアしたボールを拾うためだろうと思います。

そういう意味ではジュビロの攻撃は全員攻撃で、あの波状攻撃はここから生まれてくるんです。

しかし、中盤でボールを取られる機会が多い今、この戦術は成立しません。

相手が中盤でボールを奪うとき、センターライン付近にいる選手はフォワード(以下FW)とミッドフィルダー(以下)合わせて5人くらい、その後ろにMFが3人くらいいると推測されます。

しかし、ジュビロの場合3バックなんでDF3人、MFはボランチの2人で計5人です。

サッカーはボールを持っている方が有利だと(あくまでの私個人の見解ですが)思うので、数的優位の話となれば、守備する方が不利であるといえます。

じゃぁ、ジュビロの残りの選手はどうしているかと言うと、この人たちがパス回しをしている訳ですが、FWは性質上、前がかりにポジションを取っていので中盤でプレイをしている選手はMFの残り3人ということになります。

これで大体お分かりでしょうが、ジュビロの戦線は結構間延びしているのです。

旧日本軍が優秀な航空隊なり艦隊を持ってしても敗戦したのは戦線が間延びしたのも一因であるということは史実家の中では定説となっているところであるように、優秀な機動力なり判断力といった技能を持った選手であっても、間延びした戦線を張っていたのではそれらが活かし切れず、結果負けてしまうことがあるということは想像に難くないことだと思います。

中盤でボールを取られてしまうってことは、輸送途中で輸送船が撃沈され物資が前線に届かないのと同じで、攻撃しようにも攻撃するまさしく“タマ”が無い上に、手薄になったディフェンスをかいくぐるのはいくらジュビロの選手が優秀だろうとしても、相手だってプロなんですから、そうそうボールを渡してくれるはずも無いでしょう。

てな訳で、相手にとってはそこにいるだけのジュビロのFWのマークに付いて警戒していれば良い訳ですから、いくらジュビロの選手が中盤でパス回しをしても、そうそう相手DF陣がラインを上げてくるわけも無いわけです。

次に、組織的なディフェンスはどうなのかを考えてみましょう。

TVで観る場合ですが、相手がゴールを決めるとき、最近の試合ではシュートを打つ選手がフリーな場合が目立つように思います。

これは、ディフェンスする選手が、完全に相手をマークできていないことを示します。

と、いうのも最近調子の良いチームはポジションチェンジが頻繁で、マンマークなんかやってたら、あっと言う間にフォーメーションを崩されてしまいます。

また、先ほども言ったのですが、前がかりな攻撃のため数的優位を作ることができず、結局、ディフェンスしきれずにゴールされるなんてこともあります。

 

色々書きましたが、この状況をどうやって打破すれば良いのか・・・、これはもう調子の良かった2000年ぐらいの頃を思い出してやるしかないでしょう。

事実、桑原氏が監督を更迭され、新たに完全優勝時代監督だった鈴木氏が新たに監督となった最初の試合は、あの完全優勝したときとほぼ同じ布陣(当時、FWが高原選手だったのが、前田選手だっただけ)で臨んだくらいですから・・・。

戦術的には現状を更に洗練させるとか大幅にチームのタイプを変えるとか、色々あるかと思いますが、それには選手の意識を変えることが大切です。

なんだか最近のジュビロは負けグセがついているみたいで・・・、例え先制点を取っても、後から逆転されるのでは、とかの意識が無意識に働いているような気がします。

実際、上手くいって欲しいと願っても、上手く行かない方が確信できてしまうと、そのとおりに上手く行かなくなってしまうものです。

願いよりも自信、確信していた方がより現実になりやすいものですから。

ジュビロ自体、決して弱くなっている訳では無いと、私は思っています。

何故なら、ジュビロが攻撃に移ったとき、上手くかみ合えば怒涛の波状攻撃を見ることができるからです。

多分、選手たちが自信を取り戻してくれれば、あるいは今季中に復活してくれるかもしれません。

現在(2004年10月4日)、1勝2分2敗と、あと一敗でもすればもう優勝することは不可能でしょう。

この際、チームを立て直すために、新生ジュビロ目指すために、色々試すことも大切なような気がします。

あのレアル・マドリードだって前季はリーグ3位ということでした。

“銀河系軍団”、“常勝軍団”、“世界選抜”と言われ、負けることが許されないレアルは、例え3位であっても許されない、常に頂点に君臨しなければならないという重荷を背負っているわけです。

 

かつて低迷していたレッズ、ジェフだって今や上位に食い込めるようなチームへ成長しました。

逆に、昔強かったアントラーズだってそんなに簡単に勝てるわけではありません。

Jリーグは、10年を迎え、各チーム、編成の転換期に来ていると思います。

光が強いほど、その影は濃く落ちるものです。

スタープレイヤーが輝けば輝くほど、その影にいる控え選手の出場機会は無くなるわけです。

そしてスタープレイヤーの能力に翳りが見えたとき、そのチームの弱さを露呈することになるのです。

決して選手やフロントや怠けている訳ではないと思います。

それくらいに常勝でい続けるのは難しいということです。

でも、それの方がまた面白みがあってよいのではないでしょうか。

少なくとも、どっかの国のGアンツという金の上に立つ見せかけのチームのために作られた野球リーグののたまう筋書きの無いドラマよりか、よっぽど面白いと思います。

平成16年10月2日(土)

徒然に・・・(2)

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

その1:道路をほじくり返す仕事

近頃、道路工事が頻繁で車で非常に走りにくい。

掘ったトコだけ舗装するから、道路がデコボコになってしまうからだ。

それと、いつ終わるかわからない工事。

毎日工事してるけど、いつ終わるんだろう。

現場のおっちゃん連中に聞いたって知ってるはずも無いし。

そこらじゅう片側通行にされるし、朝の通勤時間に工事始めるし・・・、やりたい放題。

工事看板見ても工事の終わる時期が来年の3月31日って、どういうこと?

そんなにかかるような工事にゃ見えないなぁ。

工事終わった道路、交差点にせっかく書いた減速を促す標示がほとんど剥ぎ取られてた。

多分下水道工事なんで行政の仕業なんだろうが、行政は交通安全なんか無視かねぇ。

多分、1年は放置されるよ、警察にだって予算があるからね。

 

その2:選民思想

俺の通勤路の途中に新しく公営住宅が完成した。

昔のお化け屋敷みたいなコンクリート2階建てが何棟か並んだ造りから、ベージュ色のモダンなコンクリート3階建てが一棟建っていた。

けど、別に俺が住む訳じゃないから、まぁ、どうでも良いんだけどね。

公営住宅って応募しても、当選しないような気もするし・・・。

あそこって選ばれた者しか住まわれない高貴な棲家なんだろね。

 

その3:飲み屋の話1

最近昔から俺の担当の飲み屋のネーちゃんがキレ気味になるときがある。

なんでかなぁ、って思っていると最近店に入った若い娘と、俺が長渕剛さん好きって共通のものがあって彼女の方との話が弾むからだろうなんて思っている。

古参である担当のネーちゃんとしては、あんまり面白くないとは俺も思うよ、俺がその立場だったらね。

別に今の所は担当者を変える気は無いんで担当の方にはあんまりキレないでもらいたい。

と、まぁ、なんだか不穏な空気が流れる中、何とかしたいと思っても、何ともならないんだろうなぁ、現時点では。

時が解決してくれるだろうさ、多分。

 

その4:飲み屋話4。

常連客のIちゃん(男)は酒を飲むと豹変する。

シラフの時は、いつもニコニコしているけど、酒が入ってくるとだんだんハイになってくる。

非常に楽しそうな彼なのだが、さらに深酒になってくると一変、非常に絡んでくる。

これにはいつも閉口してしまう。

どうも客連中みんなと話をしたいらしく、そこらじゅうの客にちょっかいを出し、だいたい怒られるか、拒否されてしまう。

そうすると彼はどんどん不機嫌になってしまう。

俺としてもお付き合いしても良いかと思うが非常にしつこいので、こっちが参ってしまう。

昨日も元会社の先輩と仕事の話をしていたら、「いいじゃん、そんなこと・・・」って言って話に割り込んでくるのである。

“おまいに何がわかるんじゃっ!!”、と、言いたいところだが、俺もそれなりに大人なんで、やはり穏便に済ませたくて“まぁまぁ”と言ってしまう。

で、そんな彼であるが閉店間際に、彼は完全に寝ていた。

ちなみに同じようなことがあったとき、店の女の子が後日その時の話を聞いてみると、そのときのことは覚えていないそうだ。

幸せな人だ・・・。

平成16年9月30日(木)

徒然に・・・(1)

この文は一応、“日記”的なことを書く“月記”というコーナなんで「です、ます」調では記述されていません。

 

社会正義は、ホントに無力だ

世の中、ヤッたもん勝ちだろか

法は正義の力を振りかざす

だけど、ホントの悪にはとっても無力だ

 

殺人、強盗、窃盗、恐喝

やっちゃいけないってはずなのに

やっぱ全然無くならない

 

詐欺に破損に贈賄、収賄

やっちゃいけないってはずなのに

やっぱ全然無くならない

 

悪と正義は紙一重

少数意見と多数意見

少数意見が悪ならば、

多数意見は大悪じゃ?

 

社会倫理は誰のため?

こいつで儲かる奴のため?

社会正義は誰のため?

こいつで儲かる奴のため?

 

(うーん、病んでるなぁ、この文章・・・)